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本日のデイリーはひょんな事情により金曜担当者による代筆です。
「オカルト」という言葉があります。一方で「カルト」という言葉もあります。筆者は長い間、これら二つを同一の単語と見なしてきまして、そしてつい最近になって気付いたのです。あ、「オカルト」という言葉がある一方で「カルト」という言葉もあるぞ、と。恐らく日本語で名詞を丁寧に言う接頭辞「お」と混同して、今までは気にならなかったのだと思います。でもそれならば表記は「おカルト」になりそうなもの。調べてみますと、二つはやはり全く別の単語。
オカルト【occult】…超自然の現象。神秘的現象。
カルト【cult】…宗教的崇拝。転じて、ある集団が示す熱烈な支持。 (大辞泉より)
語源的にも別だという説が有力なようで、意味的にも明確に区別されています。しかしながら、ここからは私見ですが、英語の綴りを見ても、「oc」がついているかついていないかの違いだけであって、多分英語の話者の方でも両者を混同している人は多いのではないでしょうか。
前回の金曜の記事と重なるところがあるかも知れませんが、言葉はシニフィアンとシニフィエが完全に対応した強固な論理体系というわけにはいかず、単に発音が似ているからという理由だけで意味が近寄って変質したりすることがままあるようです。そしてまたその裏には、やはり現実社会で起こっている出来事が大きく関わっていることが多いです。「オカルト」であれば、この言葉がよく聞かれたのはオウムによる事件が問題になったころでしたでしょうか。最近は聞かなくなりましたね。今の流行は「スピリチュアル」でしょうか。
やるべきことがたくさんあって、こんなことしてる場合じゃないと思いながら、この数日間に2つの演奏会に行った。以下、それの最中に気になったこと。無学ながら偉そうに言ってすみません。
ひとつめ。三味線、箏、尺八など日本の楽器で演奏される曲、ひろくは、別の民族音楽(?)に欠かせないのはおそらくピアノで出せない音である。つまり、ドと♯ドの間の音とかそういう音。だから邦楽はピアノで再現しようとすると、そういう理由もあって失敗するに違いない。もちろん西洋の、我々が普段クラシックと呼んでいる類の音楽であっても微妙な音程抜きには無味乾燥としたものになるのだろうが、こちらは「ピアノ的」音から外れると「下手」と思われる気がする。
で、私は、ドから1オクターブ高いドまでを12に区切ってしか歌えないのでは、と演奏会中に思った(当然ながらその場では歌えなかった)。ほんとはあまりに細かすぎなければいくつに区切ったって歌えるはずだ。なのに半音単位でしかわからなくなっているのはなぜだろう。学校の音楽のせいなのか、身の回りの音楽がみなそうだからか。
ふたつめ。ベートーベンの交響曲を聴いて、曲自体はとても好きだけれども、この演奏の仕方はどうかなぁ、と思っているところに、アンコールでモーツァルトが演奏されて、こちらは大変気に入った。何の変哲もない話のようだけれども、一瞬、これはモーツァルトの曲の性質なのではないかと思って震えた。ベートーベンのある意味厳格な音楽は、演奏する者、あるいは聴くものに何かを要求するような感があるが、モーツァルトの音楽は、芸術として見事なものである上に、大衆受けの良いというか、誰にもなじんでいく、そんな感じがある。実際は、多分自分のベートーベンの交響曲のイメージと指揮者のスタイルが違い、しかしモーツァルトに関しては同じだった、そういう曲に向いている指揮者だったというだけかもしれないが、今回はベートーベンの偉大さだけでなく、モーツァルトの偉大さを感じた。
みなさんおはようございます!!
今日は、「証言の心理学」っていう新書の中に出てきた文章を少し紹介したいと思います。
「記憶は体験を発酵させ、少しずつ変化させていく熟成庫のようなものである。熟成に成功すれば体験本来の味わいをより深く、より濃厚
にしてくれるかもしれない。しかし熟成と腐敗は常に紙一重である。記憶のなかで私たちは出会ってはいないはずの人と出会い、話してい
ないはずのことを話し、見ていないはずのものを見てしまうことすらあるのだ。」
引用
「証言の心理学」
著作:高木光太郎
初版:2005年5月25日
P18L8~P18L11
どうでしょうか?私は特に、熟成と腐敗は常に紙一重である、のところが気に入りました。
記憶とはあいまいなもので、また変化していってしまう、そんな記憶をもとに証言が存在している。
そして、その証言は人の人生を左右するほどの力を与えらてしまう。
なんとも恐ろしいことです。
だからこそ心理学もその証言を限りなく正確なものとするため、日々邁進しているのか・・・と思うとなんだか、私も世の中に役立つ学問
に触れているのだからもっと頑張らねば!と感じられたわけなのです。
よかったらまたまたこちらの新書も手にとってみてくださいね。
高校時代の国語の師、I先生。印象的な授業、言説を示して下さいましたが、その中でも特に筆者が覚えているものの一つに、某大学の国語の入試問題を解いていた時の発言があります。曰く、「国語の問題を解くのは頭のスポーツのようなものだ」と。
難解な記述式の問題を解くことについて述べられたものですが、ウンウン悩んで、頭の中で考えを捏ね繰り回して、深く深く考えて記述する、そうして終わった時には走りきった後の脚の感覚のように、頭に心地よい疲れのようなものが残っている、という感じだったでしょうか。高校時代は専ら素人フルマラソンのような疲れしか筆者は味わっていなかったのですが…。
筆者は現在第二外国語として中国語を学んでいます。発音や日常会話、基本文法を学んでいるうちはよかったのですが、そろそろ文章読解に入ってきて苦労が始まっています。その中で、嘗て始めて英語を見たときに味わった、「全く読めない」感覚を再び味わっています。そうなった時は例えば「私は2~3日旅行に行きます」という他愛ない文章を書くにも辞書首っ引きで、単語、いや文字単位での結びつきを考えていくわけで、解体新書の「フルヘッヘンド」を訳すのに苦労した、という逸話まで思い出してしまうほどです。
そんな状態でいると、つい最近の授業で一つの中国語文章を日本語に訳しきったとき、何か一試合終わったかのような疲れと達成感を感じました。I先生の言葉を思い出した所以です。大学の第二外国語など、周りにはやっつけ仕事として「要領よく」こなす方々が周囲は多いのですが、手も足も出ない感覚を味わって、かつじわじわと考えていく体験が出来たことは大いに有益だったなと考えています。
さむい。
平仮名ではあんまり伝わらないなあ。ここはひとつ漢字で「寒い」とすると、多少はしかつめらしくてグッド。だけども話し言葉では漢字もへったくれもないから、ほんとうにさむくてさむくてたまらんときには「さぶい」、あるいは最近では形容詞の語幹だけで切って感動詞的に言うのが流行ってるらしいから、「さぶっ」などと言ってみたりするよ。わたしは。
この「さぶい」という訛り方は関西地方独特のものかと、関西地方出身のわたしは井の中の蛙な感じで思っていんだけど、実は式亭三馬の『浮世風呂』っていう本の中でも「さぶい」と言ってる人がいるらしいんだ。つまり200年前の東京にも「さぶい」という言葉はあったんだね。ところで、場所を移して北海道地方には「しばれる」という言葉があって、地元の人に言わせると北海道の寒さは「さむい」とか「さぶい」なんかじゃ言い表せないんだって。分かる気がするよね。「しばれる」。ものすごく寒そう。っていうか何か痛そう。
言葉は記号としての意味を持ってるだけじゃなくて、音声が醸し出す雰囲気も一緒に連れてる感じがするなあ。[シバ]っていう音節は英語でもshiverで「悪寒」みたいな意味があるし、shivっていう言葉は「ナイフ」とか「カミソリ」を表してる。感覚的に同じものがあると思うんだ。インドだとシヴァは破壊神の名前だね。どかーんっていう感じ。そういえば日本語にも「縛る」っていう動詞があるじゃない。ぎゅうぎゅうぎゅう痛い痛い痛い!って感じ。「しばれる」ってそういう色々な「感じ」をごった煮にした寒さを表してるんじゃないかなあって思うよ。
あ、でも柴犬は可愛いよね。犬はよろこび庭かけまわり。ああ、冬が始まったなあ。
最近、ほぼ毎週、NHK総合テレビで放映されている「プロフェッショナル 仕事の流儀」を私は見ている。知っている人も多いとは思うが、これは、様々な分野の第一線で活躍しているプロフェッショナルの仕事や、その仕事における信念などを紹介するドキュメンタリー番組である。
テレビ番組であるから、その仕事のある一面しか取り上げられていなかったり、誇張されている部分もあったりして、番組の内容は、もしかしたら出演している人物が伝えたいこととは異なるものであるかもしれない。だが、私は、自分の職業、そして自分自身と向き合いながら人生を歩む中で、自分なりの信念や考えを持って仕事に取り組む人たちの姿を、この番組を通して見る度、心動かされる。尊敬、憧れ、単純に凄いと感心する気持ちなど、様々な感情が自分の中に沸き起こって、自分も将来、自分なりの信念を持って仕事に取り組む人でありたい、と思う。
私は、今まで単純に知的好奇心で進路を決めてきた。大学も勿論、知的好奇心のみで選択したため、現在学んでいることは、おそらく将来の職業に直結はしないだろう。これまでの選択を後悔する気持ちはないが、「とりあえず、働く傍ら趣味が続けられる仕事が見つかればそれでいいか」というような職業に対する安易な考え方は確実に薄れ始めている。
職業の選択は人生の二大選択のうちの一つであるという。自分の職業を決めるのは、もう決して遠い未来の話ではない。自分の人生がこれからどうなるかはわからないが、自分自身と再度向き合い、将来に向けて一歩一歩進んでいこうと思う。
今日はお休みです。
水曜担当者