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既製品社会について前回書きました。最後に技術がどうのこうのと言っておりましたが,あれ以後孝太郎に以下のような文章がありました。スクロールすればすぐ出典元があるんですけど,一応定例なので引用します。
曲をつくって世に出すというのは、自分で産み育てた我が子を荒海に投げ出すような感じさえする、勇気の要ることじゃないだろうか。
よく自分の書いた絵とか文章とかを隠したがる人がいるが、自分の内面(手のうち)をさらけ出して聞いてもらおうという作曲という作業は、それだけで尊いような気がして、ときどき涙が出そうになる
出典:2月12日付 デイリー孝太郎「classic-5.Mozart」
消費するのは非常に簡単です。芸術全般,いやむしろ商品経済に流通するものの全体がそういえるでしょう。もちろん玉石混淆ですし,中には本当に大したものではないのもあります。しかし,小説ひとつ想像してもらえば,それを考えることの重大さが感じ取れると思います。そこにいる人が人格を持っているように感じられなければ小説としては失格,しかし自分の人格でも明確に人は語りうるでしょうか。
上記記事の作曲という行為もそうです。音楽は一般に「心に」響くものとされていますが,その心とは何か。やっぱりこれも一筋縄では語りえないでしょう。これを語る言説も商品になって流通するほどなのですから。そもそもの音楽は心に響くものか。そして,響くとしたらどうすれば響くのか。他人に聴かせるための音楽ではなく俗な言葉で「独りよがり」な音楽であっても,それが自分に響くためにはよほどの内省をはらむことでしょう。
消費にばかり慣れて生じるのは芸術性の喪失かもしれません。芸術とは人格への内省が必要としたら,人格の喪失が現代に言われることと関わるかもしれません。「個性」がしきりに言われながらこういった喪失に直面しているというのは,いささか大袈裟に過ぎるでしょうか。
これを書きながら,筆者もかなり内省の必要に直面しています。
遺跡は人類に遺された宝であるが、それを発掘すると二度と元の状態には復元できない。それは宝の破壊行為である。しかし、それでも、そこにある遺跡を掘らないのは人類に対して失礼なことのような気がする、というのである。
「宝の持ち腐れ」という言葉があるが、宝がその価値を発揮するのが、それが失くなってしまうときに限るのであれば、やはり宝は消費されるしかないのだろうか。
インドの図書館学者ランガナータンが提唱した「図書館学の五原則」なるものの中に「本は利用するためのものである」というのがある。これは当たり前のことに思えるかも知れないが、実は図書館の機能には利用のほかに保存があって、そこを敢えて「利用が本義」と主張したのがランガナータンの五原則なのであって、
図書の貸出は即消費ではないが、やはり多くの人に渡れば本だって痛むし、延滞や、ひどい場合には紛失する人だっている。それを見越して、貸出対象者を制限したり、館内閲覧のみにしたりして、「保存」の機能を強く打ち出すことも図書館は出来るわけだ。しかし、保存したとてそれは未来の利用者のためであり、未来の利用者が同じように保存の原則に従えば、結局は「宝の持ち腐れ」となってしまう。大切なことは、宝から最大限の価値を引き出せるような利用方法の模索なのだ。
とはいえ、明日の自分は他人。富の再配分はいつだっていざこざにまみれている。将来の利用者と現在の自分のどちらが本当にその宝を必要としているのかを判断することは難しい。時間が流れる限り、人類はこのジレンマを永久に抱えるのだろう。
ところで、大量消費社会なんてことが言われるが、そもそも「消費」という契機は、人類が何か「保存」という方法を編み出してからその対として生まれたものでは無いだろうか。ただ生きるために肉を狩り、食らう行為を消費とよぶには抵抗がある。保存か利用か、このジレンマは人類の歴史とともに古いものだと仮説してみたい。
作曲家というのはすごいものだなぁと思う。
「あんな曲を作れるなんてすごい!」というより、「よく発表できるな!」という感じだ。
さて、今日はモーツァルトの曲を。
モーツァルトといえば、明るい、軽い、自由な、そんなイメージがあるかもしれない。神童とか天才とか、そういう言葉の似合う(気がする人である)人である。
しかし、本当は、作曲にしろ演奏にしろ、彼はとてつもなく勉強をし、練習をしていた人だったようであるし、自分の曲が演奏される際にも、かなり細かい注意を演奏者に対してしていたようである。
彼の曲でよく知られているのといえば、「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とか、「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」などのオペラ、交響曲第25番やピアノ協奏曲第20番などが思い浮かぶ。今では名曲と言われる曲が、当時は非難轟々だった、ということも結構あるらしい。
曲をつくって世に出すというのは、自分で産み育てた我が子を荒海に投げ出すような感じさえする、勇気の要ることじゃないだろうか。
よく自分の書いた絵とか文章とかを隠したがる人がいるが、自分の内面(手のうち)をさらけ出して聞いてもらおうという作曲という作業は、それだけで尊いような気がして、ときどき涙が出そうになる。(が、もしかしたら、ただ聞いている曲が良かっただけかもしれない。)
で、今日お勧めしたいのは、レクイエム。聞きたいだけでなくていろんな勉強(?)にもなる曲。←こんなテキトーなコメントで良いのか
〈肆〉『孝太郎』の現状
2007年9月の第10号公開以降、『孝太郎』の本業である文芸誌の刊行は行われていない。かれこれ1年半近く、『孝太郎』は「デイリー孝太郎」の連載を生命線として活動を続けてきた。現状を分析するにあたっても、したがって、「デイリー」のあり方を議論することとなる。
ふつう、文章あるいは〈ことば〉というものは、“誰が誰に向かって何のために発するのか”ということが明らかなときはじめて意味をなす。背景のない〈ことば〉そのものが独立しうるのは、宗教の聖典でなければ超一流の文学の場合のみである。我々が日常的に扱う〈ことば〉には、必ず〈主体〉・〈対象〉・〈目的〉が付随する。
ところが「デイリー孝太郎」は、形式上、聖書の類に入ってしまっていたのである。「デイリー」の記事は匿名である。したがって誰が書いているのか読む者にはわからない。つまり〈主体〉があいまいなのである。文章を公表する場合、〈対象〉はもっとも不明確になりやすい要素である。「デイリー」の場合、一応『孝太郎』の読者ということになっていると思うが、それがどういう人々なのかは正確にはわからない。ほとんどが同級生であると想定されるが、ネット上で公開しているため、そうでない読者もいるかもしれない。そして〈目的〉がいちばんはっきりしない。「なぜこれを書いているのか?」私も「デイリー孝太郎」執筆者の一員として、たびたびこの疑問を抱いた。
こうして見ると、「デイリー孝太郎」は、性質的には「天声人語」に酷似している。筆者は匿名で、読者は不特定多数である。しかし、やはり〈目的〉の明確度をくらべれば、「デイリー」のほうが劣ってしまう。「天声人語」は朝日新聞の目標(おそらくニュースの伝達と世論の形成)を達成するための一翼を担っているはずである。筆者は朝日新聞の理念に則って(悪く言えば「縛られて」)あの261文字を埋めているに違いない。ところが「デイリー」にはそういった目標がまるでない。少なくともないように見える。その結果、今日に至るまで、それぞれの担当者の思惑が入り乱れた連載が、漫然と続くことになってしまったのである。
もちろん、企画を考案した編集長にはある程度のイメージなりプランなりがあったのだろう。しかし彼はそれを事細かに語ることをせず、私たちもそれをくみ取ることができなかったのだと思う。とても残念である。そこで、とりあえず私は、読者が誰であろうと、読んだ人がそれをきっかけに何かを考えてくれるようなもの、新しい視点を与える楽しいもの、というぐらいの目標を立てて記事を書いてきた。しかし、読んで楽しいものを書こうと思えば、まずは書く私が楽しんで書かなければならない。私の生活範囲はごく限られている。バスでの通学、大学での聴講・ゼミ、自宅での時間。おおよそその3つしか場面がない。読む本も堅苦しいものが多くなってきた。読んで楽しい話題を1週間に1度文章化するというのは、思いのほか至難の業なのである。ある程度の期間は楽しく書いていても、週に1度の連載が私の〈ノルマ〉〈義務〉であるような感じが、だんだんと増してくる。そうなると気分は重くなり、おのずと文章もぎごちなく稚拙なものになってしまうのである。
私が見るに、「デイリー孝太郎」の5~7人の担当者は、週に1度の執筆に関してそれぞれに苦悩を抱え、さまざまな方法で乗り切ろうとしてきた。だがそれらの作戦の多くは、言葉は悪いが苦し紛れであり、『孝太郎』の精神とはおそらく合致しないものである。以下ではその一部を分析しようと思う。すでに述べたように、問題は「デイリー」のシステム自体にあるのだから、執筆者個人を攻撃することは避けるべきだと私は考えている。したがって、私が書いた記事以外は、すべて一般論として批判することとする。実際のところ、たいがいの〈苦し紛れ〉は私自身が通った道でもあるので、批判というよりむしろ自省という方が当っているかもしれない。
まず、週に1度のペースが苦しくなってきた担当者は、〈シリーズもの〉で回避しようとする。これは、過去にさかのぼってみても現在の状況を見ても、一目瞭然の現象である。「デイリー孝太郎」では、記事の内容は全面的に担当者に任されている。各担当者は自分の曜日については完全に〈自由〉が与えられているのだ。しかし〈自由〉であることが悩みの種になるのは世の常で、悩んだ担当者は打開策としてシリーズを組み、執筆内容に制限を加えることで自由からの逃走を図るのである。
もちろんシリーズと名の付くものすべてが悪いわけではない。シリーズ化することで発想の幅を自ら進んで狭め、「書き易さ」を求めているとしたら、それは『孝太郎』の理念に反するのではないかと言いたいのである。この「『孝太郎』から遠く離れて」も確かにシリーズものではあるが、これはひとつのまとまった文章を6回に分けて掲載しているだけなので、私がいま問題にしているところの〈シリーズもの〉とは性質を異にしていると思う。
悪い〈シリーズもの〉の例としては、私がある時期に試みた「変奏曲」シリーズがまさに当てはまる。原稿締切日の毎週日曜日、私はまず、過去1週間分の「デイリー孝太郎」の記事を読む。もちろんすべて他人の作品である。その中で一番興味深いと感じたものをひとつ取り上げる。それが「○○」というタイトルの記事だったとすると、私のすることは、その文章の主題を別の角度でとらえたり私なりの解釈をつけたりして、“「○○」の主題による変奏曲”というタイトルで書きなおすことである。「○○」を参考にしていることは明言しているし、文体は完全に私の味付けになっているので、剽窃ではないのだが、どうしても手抜き感は否めない。一応それらしい言い訳はある。『孝太郎』の理念は、「双方向のことばの交流」である。したがって、「デイリー」の担当者同士が、互いの文章に影響を与えあうことも時には必要なのではないか、と。しかし、我が身を振り返ってみれば、そういう格好の良い信念よりも、「楽をしたい」という気持ちの方が強かった。調子に乗って数ヶ月このシリーズを続けたことで、『孝太郎』全体に漂う停滞感に拍車をかけてしまったような気がする。
もうひとつ、私を含め、多くの担当者が実行してきた〈苦し紛れ〉が〈知識を書く〉ことである。これも、その行為自体が悪いわけではないが、「デイリー孝太郎」の記事としては適切とは言えないのではないかと思う。〈知識〉は主に大学の講義で得られたものである。例えば、私は1回生の前・後期を通じてラテン語の講義を受けていたが、そこでは淡々とした文法の解説の合間に、ラテン語やラテン文化に関する様々な雑学的知識を聞くことができた。そういったものを私は何度か「デイリー」の題材として使ったことがある。確かにそれは〈面白い〉話ではある。しかしそれは、ひとつの閉じた〈知識〉でしかなく、そこから考えの発展や新しい発想が生まれる余地はない。読者はそれを受容する以外、何もできないのである。私も他の担当者も、おそらく〈つなぎ〉という気持ちでこうした記事を提出していた。私などは、話題の在庫が乏しくなってくると、たびたび知識をひけらかした。ブログのカレンダーをただ埋めているに等しいような記事もあり、編集長には申し訳なく思っている。
「双方向のことばのやりとり」――これが『孝太郎』の精神であるとするならば、「デイリー孝太郎」はそれをほとんど実現できていない。それどころか、少し厳しい言い方になるが、〈ことば〉に対して失礼なことをしてきたのではないかとさえ私には思われる。
「ことばのキャッチボール」という言い回しがよく使われるが、我々はこの意味をもう一度よく考えてみければならない。ひとまず簡単には〈双方向〉ということである。〈ことば〉は、特別な場合を除いては、発信者と受領者がいなくては成立しない。そしてその二者の役割は、常に入れ替わっていなければならない。〈ことば〉を受け取った者が次の瞬間発信者になって初めて、〈ことば〉は生きてくる。
さらに我々は、〈キャッチボール〉の性質に考察を加える必要がある。第一にキャッチボールでは、使われるボールはひとつである。したがって、〈ことば〉を伝え合う構造の基本は、
A:こんにちは。
B:こんにちは。
というやりとりにあるのである。ここには、Aが発信し、Bが受領し、Bが発信する、という3段階のプロセスが認められる。そして発信され受領される〈テーマ〉(〈ことば〉ではない)は基本的にひとつである。これは単なるオウム返しではない。オウム返しの場合は、「Bの受領」の段階が飛んでいる。〈ことば〉が生き生きと伝わるには、受け手が送り手の〈ことば〉をよく噛み砕き、テーマを理解することが必要なのである。
第二に、キャッチボールでは、ボールを投げたら投げた人の手からはボールはなくなる。これはあまり言われていないことであるが、私は最近、〈ことば〉に関しても同じことが言えるのではないかと考えている。〈私〉がある〈ことば〉を発するとは、その〈ことば〉を〈私〉自身から抜き取って相手に投げることである。その瞬間、その〈ことば〉は〈私〉のものではなくなる。だが、相手がきちんとそれを受け取ってくれ、しかるべき応答をしてくれれば、すなわち投げ返してくれれば、〈私〉はその〈ことば〉を自分のものとしなおすことができる。ところが、相手がいないとき、相手が無視したときは、その〈ことば〉は遥か彼方へと飛んで行き、二度と〈私〉の手元へは帰ってこないのである。〈私〉はそこで、ひとつの〈ことば〉を喪失することになる。
極言すれば、「デイリー孝太郎」は〈ことば〉の喪失を促進していたのではないかと私には思われるのである。目的も見えず、投げかける相手もぼんやりとかすみ、応答もほとんど得られない。そんな中で毎週記事を書き続けるのはたいへん辛いものである。〈ことば〉はどんどん奪われてゆき、気力も失われてしまう。今思えばそれは当然の結果であった。「天声人語」も確かに似たようなコンディションの中で百余年続いてきた。しかし彼らはプロである。我々はプロではないのだから。
〈ことば〉がそれ自体で威力を発揮することはめったにない。なによりもそれを取り巻く環境、すなわち送り手と受け手と目的の存在が必須である。それらを欠いてしまった〈ことば〉の体系がどのような運命をたどるのか。「デイリー孝太郎」は、我々によき教訓を残してくれたのではないだろうか。
模様替えは自分から思い付いたのではない。そもそも私の部屋では収納スペースが少なく、畳んだ服が床にゴロゴロ並んでいる状況が続いていた。それを見かねたのであろう、母がタンスを他の部屋から持ってきて使ったらどうかと提案してきた。その時初めて、ついでだから模様替えもしてしまおうかと思い立ったのである。
この思い立ちには理由があった。実は私はそれまで寝るときや着替えるときくらいしか部屋を使わなかったのである。部屋に自分の所有物が並んではいるがそれらを使ったりすることもあまりない。また私とは関係のないものが入った大きな洋服タンスがあったりと、自分の部屋というよりは物置に近い感じであった。他の人の部屋と比べると、かなり生活感の乏しいものだったのである。
そんなわけで私は自分の部屋を持つという感覚が少々稀薄すぎると思っていた。そこで一度模様替えをして、少しは居たくなる部屋、自分の思う姿を反映させた部屋を作り、自分の部屋にいるとはどんな感覚なのであろうかということを実感しようという試みに出た。
またもう一つの理由に、まともな部屋というのが、まともな人間でいようとする意識を維持するのに役立つかもしれない、という期待を持ったためである。あるモノの存在が人の意識を変えることはよくある。モノに対する依存度が強ければ強いほど意識への影響も大きいので、今は自分の部屋はさほど私に影響を及ぼさないのかもしれないが。
以上のような思いで模様替えをした。やはり最初は違和感を覚える部屋である。とにかく部屋に慣れ親しむのがこの春休みの目標の一つになりそうだ。
先日傘が教室に置き忘れてあって,調べてみたら骨が折れていました。大学生ともなれば傘には名前を書かない。しかも壊れ物。そういうわけで届けるのも機が引け,それでいて駆け出しの吝嗇家を名乗る身としては放って置けず,持って帰りました。置き去りにしたら迷惑だしね。まあ,これも拾得物横領ですけど。
それで帰って調べると,骨が一部外れていることが分かりました。釘のようなものが外れていたわけです。そこで私はゼムクリップ,針金で出来てるあれです,あれを持ってきてのばして骨を止めました。思いつきでやってみたら,案外綺麗にがっちり留まって,新品…ではないですが,問題なく使える範囲にはなりました。今,これが普段の傘です。
最近,自分でノートを作ったりもしてます。普通の紙,A4なりB5なりの紙を束ねて,ステープラーで留めて,背をつける。それだけ。
貧乏性,と一言食らうかもしれませんね。でも金の話だけでなく,自分で作ったり修理したり出来るならば,いい話ではないですか。晩ごはんのおかずを考えると,手作りだと何か嬉しくなる人が多いですし,全部出来合い,っていうと一般にはマイナスイメージです。何故料理だけなのかなと思うわけです。
既製品社会,とでも言うでしょうか。商品社会にはまだハンドメイドが普通に見られてもおかしくないのですが,今は手作りが価値になっている,それは手作りが売られる価値になったことを指すわけです。手作りって商品を「企業が製造して」売るあたりまさにそうです。コンビニのおにぎりとかですね。
あと,既製品ばかりだと完全でないと嫌と思い易い気がします。早く捨てて新しいの買え,ってやつです。修理品はかっこ悪い。自分で作ったなんてよくやるよ。そういう声が広まり,そして雑巾ですら,真っ白で縫いつけたのが包装されて売ってある社会です。
エコだからリユースしろ,とかの論議以前に,物を大切に,とかの観念論の前に,既製品に慣れてしまっていることを自覚したらどうなのかな?と思います。しょーもない商品で溢れる世間を嘆くなら,自分で出来ることを自分ですれば,そういうものは駆逐されて既製品のほうも安閑とは出来なくなるわけです。修理とか自作とかの技術つけるには,とりあえずこちらの側が安閑と出来ない,という問題は,まあ,ありますが。
ベートーヴェン、ショパン、ラフマニノフ、と「ベタ」な人が3人続いたので、ここらで一人の日本人の作曲家を紹介しておこう。
それは、音楽の教科書に載っていた八橋検校…ではない。「花の街」の團伊玖磨でもないし、「ゆうがたクインテット」(1)の宮川彬でもない。芥川龍之介の三男、芥川也寸志である。
彼は1925年生まれ、そして今年で也寸志没後20年になる。
彼はクラシック作品だけでなく、多くの映画音楽をのこしている(2)。彼の作品はしばしば、ショスタコーヴィチやプロコフィエフといったロシアの作曲家(3)の作品と似ていると言われる。確かに、似ているというか、これはマネしたんじゃないか、という曲もある。これは芥川自身も、自身の交響曲第1番に関して、ショスタコやプロコ(4)のような音がする、と認めている。
今年は、没後20年、ということで、廃盤(?)になっていたCDが再発売されるようである。それには芥川の有名曲がだいたい入っていて、楽しい。すべてとても親しみやすい曲であるので、一度きいてみてほしい。
(1) NHK教育で放送されている番組。退屈せずクラシックに親しめるので、大人にもおススメ。
(2) 「八甲田山」や「赤穂浪士」など、きいたことのあるものが多いだろう。犬が出てくる携帯電話のCM(少し前にやってた、山(ヒマラヤ?)に登るバージョン)にも使われていた。それから、「ことりはとってもうたがすき♪」ではじまる童謡「小鳥の歌」も芥川の曲。
(3) 2人とも20世紀の人である。プロコフィエフなどは前衛的で、…この二人についてはまたいつか取り上げよう。
(4) よくこういう略し方がされる。チャイコフスキーをチャイコと言ったり。略すと言えば、ラフマニノフの交響曲第2番は「ラフ2」、ベートーヴェンの交響曲第7番を「ベト7」と言ったりもする。個人的にはあまり好きではない。(だって、「ベト」って…とかなるじゃない。)