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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 毎日忙しく、第一線で働いている人たちの、スケジュール管理の方法なるものが、あるテレビ番組で取り上げられていた。予定の種類毎にペンで色分けしてスケジュール帳に書き込むだとか、終わった予定内容にはチェックをつけるだとか、様々な方法が紹介されていたが、私が注目したのは、年間スケジュール表を用いる、というものだった。
 年間スケジュールをつけると、例えば、とても忙しい時期であっても、もっと先の目標を実現するために、今のうちにやっておこう、などといった長いスパンでの予定がたてられるそうだ。
 私は、高校生の辺りから、スケジュール帳を愛用しているが、年間スケジュールのページは、いつも白紙であった。月毎、日毎の予定が書き込めればそれで良いし、数ヶ月先の予定は、数ヶ月先のページに書いておいて、頭で覚えていれば、年間スケジュールのページは使わなくても大丈夫だと思っていた。しかし、たとえ頭で覚えていたとしても、実際にスケジュールとして目に入ってくるのと入ってこないのとでは、違うのであろう。来月の予定までには余裕があるだろうと思って、今月分のページだけを見て、予定をたてた結果、来月分のページをふっと見た瞬間に、意外とその予定までの日数も残っていなくて、焦ったりすることが結構ある。また、忙しくなってくると、うっかり来月分の予定のことが頭から抜けてしまっていたりして、ただでさえ忙しいのに、さらに忙しさに追われたりすることもある。足りないのは長期スパンでの計画なのかもしれない。
 予定をそんなにしっかりたてなくとも、なんとかなることもあるし、予定をしっかりたてたところで、自分がしっかりしなければ、計画倒れになって意味はないだろう。結局は自分次第なのだけれど、目の前の予定だけに追われることのないように、今まで真っ白だった年間スケジュール表を埋めてみようかな、と思った。
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合格発表へ向かうバスの中。お昼時のバスは利用者の大半がお年寄りである。優先座席に座っていた慎ましやかな老婦人の隣に、同じ年恰好と思しき小太りの男性が腰を下ろした。初対面であるにもかかわらず、陽気な口調で老婦人に話しかける。

 

「おたくお若いですなあ。おいくつですのん?」

「若いてそんな、わたしもう七十六ですよ。」

「そんな見えへんわ。それにしてもええお天気で。」

「ほんまに。午後から雨なる言うてましたけど、お日さん出てきてよかった。ところでそういうあなたはおいくつで…?」

「わし?わしはもう、そんなん、七十…二ですわ。」

「七十二?なんや、わたしのこと若い言わはるから年上かと思った。」

「まあまあ…せやけど七十代てまだまだ若いんでっせ。わしかて腰痛めとるけどそれ以外は元気や。八十になる姉がおるんですけど、まだこんなして踊りやってますわ。」

「それはよろしねえ。」

 

 ふたりの会話は、男性がバスを降りようと立ち上がるまで絶え間なく続いた。見ず知らずのふたりの間に生まれたぬくもりは、短い時間ではあったが私の緊張と不安をやわらげてくれた。

 三十分後、私は大学構内の掲示板を見て自らの合格を知り、普段より胸にしてきた決意を新たにした。「ことばについてどこまでも追究しよう」という決意、そして「ことばで伝えよう」という決意である。『孝太郎』をよりどころとしてことばを磨きたい。そんなことも思った。

なぜ私がことばについて考えるかといえば、それは私が人について考えるからである。ことばでわかりあい、ことばを超えてわかりあう。それが人と人とのあり方だと思うからである。

先刻聞いた老男女のあたたかな会話が耳によみがえる。結局そういうことなのかもしれない。そういうことだといいなと思う。

今日は公立高校の合格発表日です!かなりドキドキです・・・。デイリー孝太郎でも受験や卒業、入学などの話題がちらほら語られていますね。それに合わせたCMも増えているような気がします。

最近気に入っている携帯のCMで、新高校一年生が新しい学校での制服の採寸中に、前に並んでいた女の子と目が合うというものがあります。その後、初めて買ってもらったのであろう携帯にメールが来るのですが、新しい場所、知らない人たちの中での出会いというものが会話もなく進んでいきます。

なんだか桜のつぼみを見つけ出したような発見と期待、そしてまだ桜の花として立派になる前のつぼみの状態で見つかってしまったような恥じらいを感じるのです。

なんだか桜に例えていろいろ言いましたが、要するにワクワクするんです!新たな一歩を踏み出す軽やかさと爽やかさ。

春はコート一枚分、体が軽くなりますので、みなさんも春雨の水たまりを飛び越えていきましょう。

今週は月曜から4日間地元を離れていて、昨日帰って来て寝て、今日(これが掲載されるのは今の私にすれば明日だ)特売になっているノートを買いに行ってそのついでに大学近辺を自転車で回った。4日間とはいえ自分の感覚ではずいぶん久しぶりにわが町を見た感じで、なんだかこの前とは違った風景に見える。幻想的な感じもした。ちなみに大学付近は、合格発表後5日、というタイミングもあってかなにか知らないが、若者とその親っぽい3人組とか、おばさんの集団とかで割とにぎわっていた。で、なにげなく空を見ると、大きな風船みたいなやつがワイヤーらしきものにつながれて高く浮かんでいて、これは何かの観測か実験かだな、よし、見に行ってやろうとワイヤーの元を目指して走り出した。すると、まぁ見つけたときからわかってはいたけれど理学部・農学部のある方へ私は向うことになった。そしてしばらく走っていくと、どうやら農学部の建物の屋上からそれが飛ばされているらしいとわかった。たいてい屋上というのは立ち入り禁止で、自分の属している学部ならまだしも知らない建物に入っていくには臆病だった私は、―いま思えば知らない建物こそ行ってみるべきだったようにも思う―あったかいし、とりあえず学部の掲示板を見に行こう、とよくわからない理由をつけてそこを離れた。そういえば、外にいて違う雰囲気を感じたのは、単に暖かくなったからなのかもしれない。で、掲示板を見に行くと、まだ合格者番号一覧があって、しっかり見てしまった。番号が連続しているのは長くても6つくらいで、これだけ続いているのもめずらしく、つまり、なぜかうまく分散していることがわかった。確率論的に考えれば当然じゃん、なんて言われるかもしれないが、実際そうなっているのをみるとおもしろい。よくみると、去年の自分の番号が今年もそこにあって、そのおかげで、ここにならんでいる番号、紙に印字された4桁の数字ひとつひとつに、いろいろドラマがあることが想われて、―当然、ここにない“とばされた”数字たちにもそうである―時の移ろいやら、この社会、世界の中の一員としての自分という存在についてやら、頭の中をさまざまなものが行きかった。で、そんなことを考えているうちに、空に“とばされた”風船のことは、忘れてしまっていた。

 黎明の面影

 山々の群像を背に

 蠢く類人猿

 空には鉄の塊

 その下の平和

 

 これは一体何でしょうか。詩でしょうか。分かりません。少なくとも書いた人間は適当に思った語を並べただけです。書いた人間は詩のつもりではありません。山の見える都会をちょっと綴ってみただけです。普段とは違う言葉で。「いや,これはまさに詩だ。訴えかけるものがある」とお思いの方,ご一報ください。

 

 詩人とそうでない人の差はなんだろうとよく考えますが,詩が何か,もよく考えます。「詩は難しい」とか「詩って哲学的でかっこいい」とかいろいろ聞きますが,どうもピントが合わない。詩人の目線はあくまでその他と同じ「真実」(これが何かも怪しいですが)を見ていると思います。ちょっと違った角度から見ているだけ。もしくはちょっと極端化してみただけ。シュールな詩も,それが理解される以上非シュール(現実的?)なものと関わりがあるはずです。理解されうるものなら。日常を描いても詩にはなりません。例えば,

 

 昔から変わらない姿の

 山々をバックに

 人々が活動している

 空に飛行機が飛ぶ

 その下にみんな住んでる

 

 これは詩でしょうか。さっきのと同じ光景を書いてみました。これでもまだ詩という人がいるかもしれません。ダメ押しの例を挙げると,

 

 

なんとなく

 行を分けると

 詩っぽく

 

みえるよ

 

 

 これは詩でしょうか(笑)これはだいぶ否定的に見られるでしょうね。日常をそのまま描いたり,形式だけとってみても詩にはならないということです。さて,詩とは何か。哲学的思考と両立しないという論を唱えた人もいる詩。でも人間存在の謎に感性は迫れないものなのでしょうか。そんなことはない。日常にこそ何かヒントがあるはず。その日常を違った形で捉えるきっかけに詩はなりうるはず。別に公表しなくても完成しなくても,詩の見方をちょっととってみたら発見があるかもしれない,そんなことを考えてしまいます。

 卒業式シーズン。各地の学校では、校歌を斉唱したりしている。
 ところで校歌なるものは、日本以外の外国ではあまり見られない風習だとか、どこかで聞いた。セレモニーに歌を、というのが和歌の伝統を引いているのか、などと穿ってみたりもしたが、国歌が世界中にあることを考えると、そういうことでもなさそうだ。
 校歌の定石としてその土地の風景なんかを織り込むことが多いようだが、日本ほど"ご当地もの"を大切する国柄も珍しいと、これも何かの本で読んだ。例えば私の育った土地であれば、盆地なので「四方の山並み麗しく」といったフレーズが入ってくる。愛郷心、というのだろうか、さと(里、郷)単位での帰属意識というのは、他の国に比べて強いのかも知れない。
 それと、学校自体を故郷と捉える風潮も強いように思う。「母校」という言い方が象徴的だと思うが、学校は社会(=父)の対極にあって、児童/生徒を保護し育てるものというニュアンスが強い。保護はしばしば束縛に感じられるが、卒業式が終わって学校に行かなくてもよくなるとどうして良いか分からないというあの感覚はやはり<母>の喪失である。
 失って初めて分かる有り難みというものがあるが、卒業式というのは母校が<父>を招来する最後の教育であると思う。気取って言えば。

 今日、歯医者に行って、親知らずを抜いてきた。完全に生えきっていない歯だったので、どうなるかと不安だったが、思っていたよりもあっさりと終わり、全体の診療時間も30分程度の短いものだった。現在、だるさは多少残るものの、特に痛みもなく、ほっとしている。
 さて、親知らずとは、第三大臼歯の俗称であるが、何故、親知らずと呼ぶのだろうか。
 通常の永久歯は乳歯が抜けた後に生えてくる。乳歯を永久歯の「親」と考えると、第三大臼歯には対応する乳歯が存在しない。だから、第三大臼歯を親知らずと呼ぶのだと、私自身は考えており、また、それが正しいだろうとも思っていた。
 しかし、インターネットで検索してみると、どうやら違うようだ。親知らずの語源は様々な説が存在し、私が考えていた説もあるにはあるらしいが、現在最も有力とされているのは、昔の人間は現在よりもずっと短命で、第三大臼歯が生えるのは、多くの場合、既に親が亡くなった後であったからだという説らしい。
 言われてみれば、成程と思えるが、人間の寿命は80歳程度までとされている現在、私にとっては意外な説であった。これを機に、日常で何気なく使用している言葉の語源を調べてみるのも面白いかもしれない。

 ちなみに、親知らずのことを、英語ではwisdom toothといい、これは、親知らずが、物事の分別がつく頃に生えることからきているようだ。また、韓国語では愛の歯と呼ばれ、こちらは、親知らずの生える時期は、異性に対する関心が高まってくる時期であることと、親知らずが生えるときの痛みが、恋の痛みのようであることからきているらしい。言葉というのは、やはりその国の文化や考え方の影響を受けて形成されているのだろう。語源を国毎に調べてみるというのも面白いと思った。

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