05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
私は、運動が好きである。ので、ジムで延々ウォーキングや自転車をこいだりするのもそんなに苦ではない。筋トレはそんなに好きではないけれど。しかし、運動が嫌いな人というのも、当然、いる。
以前予備校で、ある教諭がこんな話をしていた。
「私は北海道出身だけれども、小学生のある時、関西に引っ越してきた。その時、夏に水泳をやらされた。北海道で水泳なんぞやらなかった自分だから、当然、泳げない。けれども教師は、泳げるようになるまで私をプールに残した。北海道では、誰もがスキーを出来て当然だが、それを他の地域から来た人に強制したりしない。スキーはよくて、水泳は出来なくてはいけないなんて、一体誰が決めたんだ。」
─大体こんな話だったと思う。
とりあえず私もそれにはナルホドと思った記憶がある。よく考えれば…いや、よく考えなくとも、水泳出来なくたって生活は送れる。勿論、スキーも同様である。では、なぜ学校という場で、我々は水泳をしなくてはならないのか。
これは、水泳を子供たちにやらせるというのは、スポーツを子供たちに"楽しむもの"として捉えてほしいという意図があるように、私には思われる。水泳を、体育というより体を動かすレジャーの一環として、捉えて欲しいという意図である。レジャーだから、各地域・各シーズンに密着したスポーツを選ぶ。
であるからつまり、結局は私の場合、強制はせずとも、北海道に行けば北海道にてスキーを存分に楽しむべきじゃないか、スキーなんてレジャー楽しいに決まってるんだから、という立場となり、予備校の教諭の言いたかったであろうことからちょっと違った主張に行き着いてしまう。
しかしながらそれはやはり、運動が好き、ひいてはスキーが好きであるが故の、運動嫌いの気持ちを解さない私であるが故の主張であって、う―ん、やっぱり何とも言えない。一方で私は、数学が嫌いだからやりたくないと、ぶ―たれていたわけで…。ま、好きな科目や嫌いな科目は誰にだってあるよね、とそれだけの話な気がしてきたよ。笑
まったくの偶然であるが、その日、私は「ポツンポツン」の筆者と大学構内ですれ違ったのだった。彼女がいつも以上に輝いて見えたのは、失礼ながら、昼下がりの太陽が後ろから照らすせいだと思ったが、どうもそうではないらしい。未知の世界に飛び込み、新しい何かを始める、その意気込みが輝いていたのだと改めて思う。〈みすぼらしい「私」〉とやらからは、もうすでに脱出できていたのではないだろうか。
建築学に、キー・ストーンという重要な概念がある。アーチを組む時、最後に頂点にはめ込む石のことだ。ローマ帝国の遺跡(たとえばコロッセウムの外壁)などを思い浮かべるとよいだろう。周りの石に支えられながら、すべての石を支えている。ひとたびキー・ストーンが外れれば、いや少しずれるだけでも、アーチ構造は文字通り瓦解する。
「ポツンポツン」を読んで、文中の「私」のイメージがキー・ストーンのそれと重なった。「私」とは、ほかでもない、「私にとっての世界」の頂点に君臨する存在である。私が消えても世界はあり続けるだろうが、それは秩序をなすアーチとしてではもはやなく、無意味に崩れ去った「石片」として存在するにすぎない。
もちろん「私」は世界の中にあって世界によって支えられているが、同時かつ逆説的に世界は「私」によって支えられている。もし、世界がきらびやかであり、「私」がみすぼらしいとするならば、「私」はこの世界から抜け出ることができない。抜け出たとたんに眩き世界は崩壊し、みすぼらしい「私」だけが残る。「私」は「みすぼらしい」点において憎むべき存在だが、「世界を支えている」点においてすばらしき存在なのである。世界が眩くなればなるほど、「私」がみすぼらしくなればなるほど、世界と「私」とはより密接な関係をはぐくむようになる。そして「私」の存在は、世界の中で、より確固たるものになってゆく。その意味で、人は皆、華やかな石片に支えられた「みすぼらしいキー・ストーン」である。デパートの一階を歩く客たちも、店員も、女も男も、たぶん、おそらく、皆そうである。
花の色の違いは、実は土の酸性度の違いによるということを知ったのはいつだったか。あじさいの液胞に含まれる色素、アントシアニンは、溶液が酸性だと赤色、アルカリ性だと青色になる。あじさいの花の色の違いには、このアントシアニンが深く関係しているのだが、実際に、あじさいが酸性だと赤色、アルカリ性だと青色、というわけではないらしい。
あじさいの液胞のpHを調べると、確かに、赤いものと青いものとでは値が違うが、どちらも酸性の範囲のようだ。では、何が色の違いを生み出しているかというと、液胞のアルミニウムの濃度の違いによるらしい。アルミニウムが根からあじさいに吸収されると青く、吸収されないと赤くなるのだ。つまり、酸性土壌だとアルミニウムは溶けやすくなると同時に、アルミニウムがあじさいに吸収されやすくなるので、青色になり、逆にアルカリ性土壌だと赤色になるというわけだ。
日本の土壌は酸性土なので青色が多いが、欧州ではアルカリ性土のため、ピンク系の色のあじさいが多く見られるらしい。あじさいについて調べるうちに、色の変化に富むあじさいは日本独自のもの、ということも目にしたので、本当なのかどうか、もう少し詳しく調べたいと思った。
筆者は、さだまさしの一ファンである。また妙な出だしで失礼ですが。好みの話を羅列しても仕方ないので自主規制します。
先日この人の歌を聴いていると、声が違うなあ、と思うところがあって、調べてみると相当若い時の録音でした。さださんはそれこそ高校生の時に作ったというような歌を今でも歌ってらっしゃいますが、それに「声を潰した」というご自身の経験が加わって、今と昔ではかなり異なる感じになっているようです。
どの音楽家にも言えることですが、新曲が出て、名曲が生まれるのは嬉しいことです。でもその音楽を、昔の状態で聴けることはあり得ないわけです。音楽家自身も変化し、我々もどんどん変化し。一曲を歌い継ぐ音楽家がちょっと少ないというのは別問題であるのですが、ある一曲もどんどんと印象が変わり、醸造されていくかのように感じる時があります。ですから、初期の名曲に早く出会えたときは一番幸せかもなあと考えています。これがどう変化していくだろうか、と。
陳腐な指摘ですが、もちろん音楽に限った話ではないわけです。本にせよ、言葉にせよ、人にせよ。これらがどんどんと自分の中で深まっていく。そう考えてみるといろんな物に出会うだけでも儲けもんだなあとよく感じます。出会うだけでいろんな可能性が増えていく。
でもまあ、良いものはいつ出会っても良いものだよね、とも考えながら、あまり友人と共有し得ないさだまさしの新曲情報にも注意を払っている筆者でありました。
「長崎は坂が多いことで有名ですが、さて。長崎にある坂の中で多いのは上り坂と下り坂、どちらでしょう?」
というなぞなぞを出されて、私は見事にだまされた。そして、「上り坂は同時に下り坂である」という種明かしを聞いた瞬間に、私の感覚は新しい地平を開いた。
自分の側からだけ見て物事を判断してしまっていることは案外多い。
ある地点Xからある目的地Yへ行くのに異なるルートA,Bがあって、両者の距離が等しく、Aはしばらく平坦で最後ちょっと上り坂、Bは最初上って少し下がってあとは平坦、という状況があるとき。どちらから行くのがより労力を消耗せずにすむだろうか、と考えて、いやまてよ、XからYへ行く労力はXとYの距離と高低差のみによるのではないか?と考え、それならどちらでも良いかと考えたりする。
地球上の各地点がもつ標高というステータスは各地点固有のものであり絶対的なものなのだ。
安部公房が「鞄」(新潮文庫『笑う月』所収)という短編を書いている。ある男が自分の体力とちょうどバランスの取れた重さの鞄をいつも持ち歩いていて、それはどうバランスが良いのかというと、平坦な道なら持ち運べるが、上り坂だと重くて進むことができない、というちょうどいい塩梅の鞄で、そうなると自然と彼の行動範囲が鞄によって限定されてしまうのだが、彼はむしろどこへでも行ける自由を厭って、特になんの価値もないその鞄を常に持ち歩き、鞄に限定された生活を望んでいる、という話である。
エッシャーが書いた、無限に上り続ける(或いは下り続ける)階段の絵は有名である。人間は地形の不自由を克服するために、エスカレーターだとか、文明の利器を生み出してきたのだなあ。そんなことに思いを馳せたりする。固有の高さを失った地形。地形を克服した地形。我々は上っているのだろうか。下っているのだろうか。
ポツンポツン
玄関口の大きな扉には荘厳な装飾が施され、そこをくぐり抜けると眩いばかりの白で満たされた空間が広がっている。いわゆるブランド店がどっしりと、そして少し自慢げに私の周りを取り囲んだ。白のフロアには高貴な女性の香りが立ち込めている。
百貨店のファーストフロアの印象である。受付嬢から商品の陳列に至るまで見事なまでに隙が無い。私は、いつも何気なくそこを通っている。何気ないふりをして通っているのだ。田舎くさくて、アヒルのように歩く私である。言ってみれば百貨店の気位の高さと私は月とすっぽんの関係である。その張りつめたような、透き通ったような空気に、隙だらけの自分を見透かされている気がして、どうも落ち着かないのだ。来店客もみな洗練されているし、店員に至っては輝いてさえ見える。私は異空間の中にポツリと取り残された気分だ。特に各売り場の鏡がチラチラとこちらを見てくるので、もう気が気でない。
しかし、私はその雰囲気がどうも嫌いにはなれないのだ。私の足はふらふらとそこを歩き回って、なかなかその異空間から出たがらないのだ。ポツリと取り残された感覚は、そのままの「私」が存在していることを教えてくれる。それは、畳の匂いで充満した大きなお寺の本堂の中の私に似ているし、ベルサイユ宮殿鏡の間の中の私も似ている(後者は想像の中)。「私」のアイデンティティーをしっかりと確かめられるのは、こうやって一人取り残された時なのかもしれない。
だなんて。つくづく自分の思考の楽天的な性質には、笑わされる。甘んじていてはだめだろう。そんなみすぼらしい「私」から、脱却することから始めなくては。
そうして私は履歴書を握り締めて、異空間に立ち向かったのであった。(笑)
話によると、犯人は中学校までエリートで、高校から思うようにいかなくなり、一浪して、結局好きな車の整備関係の短大に行ったのだそうだ。そして自動車工場の派遣社員に。最近になって派遣であるわが身に人員削減が迫り、何もかもが厭になって、世の中を恨んで、今回の事件に至った。簡単に言えばそんなところな話である。そしてそんなところの話に犠牲者が7人。最低な話である。
否定はしない、私は退廃的でドジで向こう見ずのおバカさんでこれといった特技もない。高校で成績が悪く、一浪したくだりなんて、あらま私のことかしら?という感じですらある。というかまあ、そんな人なんて星の数程いると思う。然れども私は人を殺しはしない。自分のことを負け組だなんだとも思わない。何故なら私は、無償の愛を親に貰っているからだ。そしてその根拠のない愛情を以て、私は自分を、ひいては人を、愛することができているからだ。
人間は、人に愛されないとすぐダメになってしまう。自分を見失ってしまう。犯人も言っていた。「彼女が欲しい」と。なのに、根拠のない愛情は、多く教育の場で、二の次に放り出されてしまっている気がする。
人を愛するには自分を愛せていないといけない。自分を愛するには無条件に人に愛されていなくてはいけない。わが子を愛しむ以上に、大切なこととは一体何なのだろうか。人は愛情に生かされる。数学にではない。