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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 イタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に日本人が書いた落書きが問題になって、「日本人て落書き好きだよねー」的な論調で、ちょっと前の東大寺の落書きなんかも掘り返しつつ語るニュース番組を幾つか見たが、確かに落書きというものは日本文化の一部とでも言ってしまえそうな気がするのだ。むろん誇れた文化ではないにせよ。
 日本の都市景観には広告が溢れている、というのはよく言われるところではなかろうか。ビルの外壁、電信柱、ありとあるスペースが広告として活用され、どこに目をやってもうるさい広告から逃れることが出来ない。そんな中で、絶対に広告を載せられない場所が日本にもあって、それが文化財というわけなのだが、広告の嵐に慣らされた身にしてみれば、綺麗な文化財は「残すべきもの」というよりは「空いているスペース」としてまず映ってしまうのである。そこに落書きしたい、自分でも何か人目に触れるところに残してみたい、というのは必然的な感情であるように思うのだ。落書きは決して正しくないが、スペースに所有権を持つ日本の権利者の美的意識というのも一度問い直してみたいものだ。
 日本でブログが流行るというのも、同じ文化に根ざす現象であると思う。日本に物理的なスペースは少なくても、ウェブ上であれば比較的空いている。だからとりあえずサーバを借りて、人に見られる場所に文章を残してみよう、と思うわけだが、その動機は自己表現の欲求というよりは、もっと低次の渇望に似た何かであろう。一度満たされてしまえばその欲求はしばらく満たされていられる。日本人のブログが続かない理由もまたそこにあるのだ。

参考:http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/04/news050.html

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名前

 

人間は森羅万象すべてに名前を付ける。生まれてくる子供や家族の一員であるペットはもちろんのこと、新しい生物や成分が発見されれば、それに命名する。学術上では舌を噛みそうになるラテン名をつけたり、自分の名前を入れ込んだりする。人間は名前という道具を用いて、意味を付与せずにはいられない生き物なのだ。

 

 たとえば、動物は門・綱・目・科・・・と徐々に小さいグループ分類されている。確かに、同じカテゴリーに入る動物たちは見た目や構造であったり、習性であったりが互いに似通っていて、それゆえに「仲間」としてグルーピングされていく。しかし、グルーピングの客体はこの世に存在するものすべてであるのに対し、主体はホモサピエンスサピエンスただ一つだけなのだ。我々の知性が至高のものだと誰が決めたのだ?それも、我々が勝手に思い込んでいるだけのことだ。我々が用いる分類は、たしかにもっともらしい方法に見える。しかし、それは「もっともらしい」に過ぎないのだ。生物a,生物bはそれぞれ固有の特色を持つものであって、それが一見して似ているからという理由だけで、親戚にされてしまうのは、彼らにとってはいい迷惑かもしれないということだ。

 

「ある物」にAという名前を付けることで、それはもうAでしかなくなる。「ある物」には固有の具体的な特徴が山ほどあるが、名前を得たことでAでない要素はそぎ落とされて、「ある物」はAという性質のみを残す。つまり、命名によって具体の「ある物」から抽象のAへと変換されるのだ。

 

 我々は文字にして、ことばにして、「ある物」を残しているとすごく安心するのだ。なんだか分からないものほど気持ち悪いことは無いからだ。しかし、「ある物」は名前と引き換えに多くのものを失っていることを忘れてはならないだろう。これが「言葉だけでは分からない」とよく言われる所以であろう。

 

宮本輝の『蛍川』を思い出した。思い出したので、せっかくだからデイリー孝太郎の原稿に使おうと思って書棚を探したけれど、なぜか持っていたはずの『蛍川・泥の河』(新潮文庫)が見当たらない。そういえば、去年か一昨年か、友人の誰かに貸したのだった。誰に貸したか覚えてないのが我ながら間抜けだ。持っている人がいたらそろそろ返して下さい。

『蛍川』の主人公は小学校高学年くらいの男の子だったと思う。名前は覚えていない。彼には憧れの少女がいる。彼よりもいくつか年上だったか……?名前ははっきりと覚えている。英子という。

 この作品の最後のシーンは、主人公が英子や家族と連れだって蛍を見に行く場面である。場所は田舎のあぜ道である。このクライマックスを私は忘れることができない。英子の体に蛍が一斉に群がる。英子は声をあげて払い落そうとするが、蛍は次から次へと飛んでくる。そして、漆黒と静寂の中に、英子の体の形そのものが蛍の光によって浮かび上がる。それは実に幻想的で、かつ不気味で、それでいて極めて官能的な光景であった。私は主人公の少年とともに息を呑んだ。

この描写によって作者は何を表現しているのか、と問われれば、おそらく「主人公の性へのめざめ」というようなのが優等生の答えだろう。たしかにそういう面は大いにあるし、少年の成長過程こそが、そもそもこの小説の大きな主題であったはずだ。しかしそれだけで片づけてしまってはなんとも味気ない。作者・宮本がなぜ蛍を使ったのかということを考えれば、私が前述したような、蛍の持つ幻想的で不気味な雰囲気、あるいは「蛍」の筆者が言うような「不安」感や「落ち着かない」感じに大きな意味があるからであろう。「蛍」の筆者が述べるように、蛍に趣深さなどない。底知れぬ切迫感、危機の前兆、残虐への衝動……静かに灯る蛍の光にはこういった「きもちわるいけどなんかきもちいい」言葉が似合うと思う。

本が返ってきたら、もう一度ちゃんと読み返してみようと思う。

 空を見上げても星の見えない世間に暮らすようになってきました。いや隠喩ではなくて文字通りの意味で、です。現在一人暮らししている場所は高校時代まで住んでいた場所よりも星が見えないんです。悪いときは一つも。一番星を見つけるのに血眼になります。健康に悪い。

 

 今の時期、何の星座が見えるのだろうなと聞かれても答えられそうにありません。夏になったら見えるであろう星座や、十二星座の位置とかも思い浮かびません。それ以前に宵の明星や北極星すらも見えないのですから、基本的に星文化というもの自体が天の彼方へ離れていってしまいそうな印象があります。そのうち酷くなると星座占い自体が動物占いの変種のようにみられるかもしれませんね。

 

 星空はプラネタリウムや本の上や望遠鏡や、もしくは「それ専用の」場所でみるものに、既になっている場所もそう少なくはないでしょう。かつて普通にいた動物を動物園に見に行って勉強するのと同じ感覚で、星座やその他星空に関わるを見に行って勉強するものになっていく状態。

 

 だから街灯を消せ、と言ってももはや詮無きことだから、普段無視されて、ホタルの季節くらいに年中行事級に繰り返されるのが現状とも思います。ただ、それでも次世代に星文化を教えるならば、ある程度我々くらいは覚悟しておいた方がいいだろうなあと感じるのです。

夏だ!午睡の季節がやってきた!
何を寝ぼけたことを言っておるのか。貴様は年中碌に講義も聞かず寝てばっかりいるではないか。午睡に季節も糞もあるものか。そのような非難は甘んじて受けたいと思うが、しかし、それでもなお夏が午睡の季節だというのにはしっかりとした根拠があるのだ。何となれば「午睡」はれっきとした夏の季語なのである。
夏の夜は蒸し暑くって寝付きが悪く、寝不足になるから昼に寝るのだという。夏なら昼間だって暑いだろうが、まあ分からない理屈ではない。
歳時記に言われなくても、私は夏の昼睡が一番気持ちいいと感じている。机に突っ伏して腕はぴりぴりに痺れてシャツの中は汗びっしょびしょ。それで起きたときに一気に体温が発散されてゆく感じ。もう爽快としか言いようがない。午睡最高!
 偶然と必然。
 友人との何気ないメールの中で出てきた話題だった。

  【偶然】《名》
  ①何の因果関係もなく、予期しない出来事が起るさま。
  【必然】《名》
  必ずそうなること。

 広辞苑から抜粋すれば、二つはこのような意味であるらしい。
 私の友人は、偶然というのは、ただ言葉が存在しているだけに過ぎず、実際には、偶然なんてものはないと送ってきた。世の中の全ての出来事は、どんなに些細なことであっても必然、つまり、起こるべくして起っているという。
 確かにそうかもしれないと思いながら、私はこうも思った。偶然というのがただの言葉に過ぎないのなら、必然もまたそうなのではないか。
 人間は物事に因果関係や意味を求めたがる。だからこそ、物事が必然だと感じられる。だから、必然という言葉が存在するわけだが、実際には必然なんてものはないのではないか。確かに人間の目から見た世界の事象には因果関係があると考えられるが、もしかしたら人間の考えの及ばないところでは違うかもしれない。偶然も必然もないのかもしれない。
 まあ、人間の考えの及ばないところ…と、ここまで話を広げてしまうと、そこから先は何も言えなくなってしまう気もするのだが。
 少なくとも人間から見た世界に限定するなら全ての出来事は必然だと、私も思う。

 上記のような自分なりの考えを友人に返した。返事はまだこない。
 友人がこれに対してどのような意見を返してくるのか、楽しみである。

 

 

毎年この季節になると、私の家のそばの川には蛍の光がちらりほらりと見られる。私は毎年見に出かけるのだが、闇のなかで目を凝らしていると、少し間をおいてぽぉっと黄緑色の火が点灯される。この瞬間の幻想的な光景は、まさに「ほたる狩り」の醍醐味だ。気が向くとこっちに向かって来てくれる穏やかな飛び方、何にもとらわれずに生きているよと言っているかのような点滅の間隔、それらはとても心を落ち着かせる。そしてなによりも、この昆虫を見るために、子供やお年寄りも集まって皆が同じように感動しているのは心温まる風景だ。

 

そうして、安らぎを感じる一方で、「ほたる狩り」の時はいつもどこかで不安がよぎるのだ。それは、きっとあの光の色のせいだろう。当然だが、蛍の光は「蛍光」色なのだ。ラインマーカー、蛍光灯、パソコンの電源を入れたときの点灯ランプ・・・蛍の光から連想されるものは人工物だけである。あの発光の仕方とあの明るさは自然の中では他には見ることのできないものだ。紅葉や炎のような暖色なら、「ああ自然の光だ」と単純に思うのだろう。しかし、蛍光は落ち着かない。イメージとしては、暗闇とのコントラストもあいまって、宇宙人や未確認飛行物体を連想させる。それゆえ、私をひどく不安にさせる。

 

実際に蛍が出す光はあたたかくないそうだ。種類によっては毒をもつホタルも存在する。恋の歌に数多く詠まれていた蛍の光だが、よく見てみよう、身を焦がすような色ではないだろう。蛍雪の功、あの色では落ち着いて勉学にも励めないだろう。

 

「ほたる狩り」時に自分に言い聞かせる「なんて趣深いのだろう。」しかし、こんどは一度すべてのフィルターを取り去って、あの蛍の川に出かけよう。暗闇に消えては光る黄緑の光に、私はどんな感情を抱くのだろう。
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