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凶と狂

 

ひどく疲れていたせいだと思う。貧血が起こった時のように、視界が白んでゆき、周囲の物音が私から離れてゆく。心を鬼にする方法を考えていた時のことだった。

 

心を鬼に・・・きっと人を憎むことは容易い。しかしそれを表現することが、私にはどうしてもできない。嫌いでも、辛くても、悔しくても、笑うことしか出来ない。きっと、憎まれるのが怖いからだ。なんて保身的なのだろう。

 

基本的に私は楽観主義者だ。なんでもお気楽に捉えるし、みんなが大好きだ。それは事実。

 

でも、心を鬼に・・・と念じているうちに、私でない私の感情が支配的になった。これを口にすればきっとあなたは私を軽蔑するだろう。なぜならその感情とは「人を傷つけたい。」というものだったから。

 

突然生まれた「凶」に対して、最初は「そんなばかな。」といつものように笑い飛ばそうとした。しかし、消そうと思っても湧き出ずる水のように、その感情は拭い去ることができなかった。その時ふと大量殺人犯にどこかでシンパシーを感じ、奈落の底に落ちるような感覚に襲われた。

 

拭い去ることができないとわかった結果、私は自分が狂ってしまったと思った。いや、狂っていたのに気づかなかったのかもしれない。もう、偽善者の皮を脱ぎされば、後に残るは「狂」の世界だ。

 

「凶」と「狂」に支配され、ものや人に八つ当たりをするでも無く、私はその場で動けなくなった。くにゃっと力の抜けた体は、ベンチに張り付いた。息を荒げることも声も上げることもできなかった。ただただ無機的に、まなこからしずくが落ちただけだった。
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  腑抜けた話をする。今日は国文学演習という授業があった。今日締め切りのこの授業のレポートを出していなかった私は、朝早急にそれを仕上げて、遅れて授業に参加した。
  その授業は生徒の発表形式で、1時間くらい、出ない質問を待つ時間となるような授業である。当然、と言ってはいけないのだろうが、だがしかしやはり、生徒の多くが寝ている。教授には研究室の補助の学生が二人ついており、そのうちの男性の方が、発表者を質問責めにして沈黙の質問時間の大半をもたせている。
  今日は途中で補助プリントの追加配布があり、その補助の学生さん二人が一人一人に配って下さった。ばたばたと眠りこけている学生たちを見て、苦笑いをしながら、男性の方が「そりゃ眠いよね」と言っていた。学生を質問責めにしていた彼はその辺のことに厳しいのだと思っていたから、意外に思った。
  …ら、やっぱりというか何というか、授業が終わって人もまばらになった頃、
「正直すぎるんだよ(怒」

という呟きを耳に挟んで、ああやっぱりと思った。それだけの、つまらない話。本音と建て前の話。 

総務省の「国民のための情報セキュリティサイト」というものを参照する機会がありました。インターネット利用上のよくある問題を扱っていて、「みんなが利用するものだからこそ、正しい知識と対策によって、安心して便利なインターネットを活用しましょう。このホームページでは、インターネットと情報セキュリティの知識の習得に役立ち、利用方法に応じた情報セキュリティ対策を講じるための基本となる情報をご提供」するそうです。初心者コーナー、エンドユーザー、ホームページの開設者、企業、と分かれて事例と対策が述べられています。

 

それ自体はどうってことのない内容なのですが、面白いのは初心者向けのコーナーには「一般」と「小学生」の二種類があることです。何が違うのか、見てみました。「初心者」のコーナーに入ったところ。一般の場合は以下のような文章が表示されます。C&P(コピー&ペースト)してみます。

 

「情報セキュリティ」とは、コンピュータとそのコンピュータにおけるさまざまな情報を守ることを言います。

 私たちの日常の社会における犯罪と同様に、コンピュータの社会でも情報の盗難やコンピュータシステムの破壊といった犯罪が発生しています。そのような中で安全にコンピュータを利用するには、「情報セキュリティ対策」が不可欠です。

 特に、インターネットは、私たちの社会生活を便利にしてくれるものですが、ウイルスの感染やコンピュータへの不正侵入、個人情報の流出など、常に多くの危険がつきまといます。インターネットを利用するための情報セキュリティには数多くの対策がありますが、まずは「ソフトウェアの更新」、「ウイルス対策サービスの利用、ウイルス対策ソフトの導入」、「パーソナルファイアウォールの利用」の3つを情報セキュリティ三原則として心がけるようにしてください。

 

 では、小学生。C&P。

 

 私(わたし)たちが生活(せいかつ)している社会(しゃかい)において、泥棒(どろぼう)や暴力(ぼうりょく)などの犯罪(はんざい)が起(お)こるのと同(おな)じように、コンピュータの社会(しゃかい)にも情報(じょうほう)の盗難(とうなん)やウイルスによるコンピュータシステムの破壊(はかい)といった犯罪(はんざい)があります。安全(あんぜん)にインターネットを利用(りよう)するには、コンピュータ社会(しゃかい)の犯罪(はんざい)から身(み)を守(まも)るための「情報(じょうほう)セキュリティ対策(たいさく)」が必要(ひつよう)です。

 まずは、「ソフトウェアの更新(こうしん)」、「ウイルス対策(たいさく)サービスの利用(りよう)、ウイルス対策(たいさく)ソフトの導入(どうにゅう)」、「パーソナルファイアウォールの利用(りよう)」の3つによる情報(じょうほう)セキュリティ三原則(さんげんそく)を守(まも)りましょう

 

 とりあえず爆笑いたしました。小学生って、これでいいんですね。総務省の感覚では。美しい日本語文からはまるでブラジルのように遠い。さらに、発音できればいいのかという最大の問題点があります。「セキュリティ」って、なかなかに難しい概念ですよ。「パーソナルファイアウォール」って何。「原則」という言葉は原則として小学校では習わないかと思いますが。犯罪を子どもには「泥棒や暴力」と教えるといいらしいです。大人は「心がける」ことを子どもは「守る」のですね。以下省略。

 

 これがたとえ全てひらがなで書かれたからといって、小学校一年生に教えられるはずもありません。言葉を噛み砕いて教えることは手間がかかり、教えるほうがよく理解し、よく言葉を身につけていないとなかなかに伝わりません。ましてや普段小さい人と話さない人には。たまにそういう場面に出くわして苦労をよくするのですが、その時の苦労を思っても、この総務省の文章はお粗末極まりないものと思います。

 

 もっとも、出会った言葉が分からず、調べたり訊いたりして言葉を広げていくことも立派な学習で、早くからそれができる環境にいられるのは幸せであるとは思います。しかし教えるほうの姿勢として、目線をある程度そろえること、そして今回は言いたいことをきちんと伝えるという意味において、文章自体を易しくする配慮がもっとなされるべきかと思います。ひらがなで書かれたものがレベルが低いわけでもなければ、漢字で書かれたものが大人なわけでもありません。

 セブンイレブンの日でもあるので、コンビニの話でもしましょうか。

 コンビニの深夜営業を規制しては如何かしら?二酸化炭素はできるだけ出さないようにしましょうよ。否、食品の保管に使う電力もあってそんなに削減は出来ないのですよ。それに深夜のコンビニ営業は地域の治安維持に一役買っているのです。何を抜かすか、夜に危ないやつらをぶらつかせているのもまたコンビニではないのか。云々。

 とまあ、そんな議論がありますね。個人的には、儲からない時間帯には閉めてしまえば世の中うまくいくんでないの?と変なところで自由主義的思考になってしまうのですが、もっと幼稚な印象として、深夜に行くコンビニの何ともいえない背徳感はちょっと好きなんであります。
 ひっそりと静まった国道沿いに、目に染むくらい煌煌と照る店内。(あの照度を適切に落とすだけでも結構節電になるんじゃないのかなあ。)ジャージにTシャツ一枚かなんかで入っていくと、店員と客との間に生まれる妙な連帯感。遅くまで大変ですね。いえいえそちらこそ。パブリックとプライベートの入り混じる非現実。そして外に出ればまた国道という現実。あの店員さんはまた何時間も待ちぼうけであろうか。なんて。
 どんなに時代が流れてもやはり夜は夜なのであります。

 今まで、小中高と学校生活を送ってきて、教師に対する生徒の反応が鈍い、何処か停滞した空気の授業というものを、皆一度は体験したことがあるのではないかと思う。
 しかし、先日、ある特定の授業というわけではなく、学校全体の生活に停滞した空気が流れていて、教師に対する生徒の反応だけでなく、生徒の発言に対する教師や生徒の反応も鈍いような学校も存在するという話を聞いて非常に驚いた。
 そもそも、あの一種独特の停滞した雰囲気というのは、どのようにして生まれるのだろうか。
 その原因は、コミュニケーションにあるのではないかと思われる。例えば、友人との会話では、自分から発言すると、友人からの反応が何かしら返ってくるものだ。その反応に対して自分もまた反応を返して、やり取りを繰り返す。こうしてコミュニケーションを行うことで、お互いの間に信頼関係が築かれていき、同時にまたコミュニケーションを行おうとする意志も生まれる。しかし、ここで自分が発言してもあまり反応が返ってこない場合はどうだろうか。相手からの反応が返ってこないと、自分から相手に働きかけようとする勇気や意志が少しずつなくなっていってしまうのではないだろうか。
 授業でも同じことで、教師に対する生徒の反応が薄いと、教師の働きかけも次第に薄くなっていく。そうなると、その薄くなった教師の働きかけに対する生徒の反応は更に薄くなっていき、あの授業の停滞感は生まれるのだろう。
 私たちが今まで学校生活において自発的な発言や行動をしてこれたのは、相手や周囲は必ず自分に対して反応を返してくれるだろうという安心感があったからこそなのだと初めて気付いた。この安心感を生むのが、日々のコミュニケーションの積み重ねなのだ。教育において、コミュニケーションは重要性が指摘されている。それが何故かなんて今までいまいち深く考えてはいなかったが、これも重要視される理由の一つではないかと思った。
 先週はお休みしてしまい申し訳ありません。
  ところで先日、小・中学生の某塾での試験の監督に行っておりました。その時つくづく思ったのです。私もあの時はこんなに小さかったのか、と。小学生はもちろんのこと、中学生って、あんなに小さいものだったのか。
  私も短期間ではありますが、中学受験科の大手学習塾へ行っていたことがあります。あの時、私もこんなに小さかったのです。今となっては考えられません。
  そして私の、平均より多いと思われる、塾や予備校経験をふと振り返ってみて、これからは中学受験科の学習塾がまだまだ伸びるのだろうなと思いました。
  私の場合、中学受験科の学習塾が一番短期間で高額な投資だったように思われます。そして実際、まだ少し需要も供給も規模が小さい中学受験科の学習塾が、一般的に見ても高額である気がします。
  冷暖房完備のゆとりのあるスペースでゆとりある人数で月に何度もある白い紙でのテスト。
  小・中・高と進学するほどに、受験競争も加熱し市場の需要・供給が増えていったは良いけれど、設備の面でのみ見ると、やはりどうしても小学生の頃の某大手学習塾がトップだったと思われます。
  これから受験競争は更に低学年化していくのでしょう。今現在、高額ながらも投資する親たちがこんなにいるのです。まだまだこの市場は伸び盛りであります。
  それに伴い、設備も劣化するのか否か、それは私にも予想できないのですが。
7/5

 「のりをこえる」ような行動を最近皆さんはとられたでしょうか。のっけから異常なことを伺うようではありますが。とられた方もそうでない方もぜひ漢字で表記してみてください。

 

 孔子に思いを馳せた方なら、きっと正しい漢字が思い浮かんだことでしょう。吾十有五而志於學 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而從心所欲 不踰矩

 という一文。懐かしいですね。最後の一文から分かるように正しくは「矩を踰えず」ですね。あ、書けるか、とおっしゃいますか。同感です。筆者も書けませんし、普段から書きません。

 

 この言葉は、「範を超えず」と書く人も少なからずいるようです。こえる、の漢字表記がいろいろあることはもうツッコみません。重箱の隅に笑われますので。でも「のり」にはツッコミを入れようかと思います。ノリツッコ(略)

 

 「矩」は、調べてみると元々は古くから使われた定規、直定規のたぐいに端を発するようです。孔子は「道徳律」の意味で用いていると解釈するのが通説のようですが。角度など幾何学的法則に基づいた秩序を測る「矩」、道徳律も要するに「真理」という意味で用いられているのでしょうね。

 一方「範」は、ご想像通り「手本」「規範」です。これは先人の為した事柄を基準としているわけです。「〜であるべきである」を示すものが「範」。

 

 「のりをこえるような真似はするなよ」と言われたときは、相手の漢字がどちらかを確認するくらいの方が良さそうだなあなどと考えました。「矩」ならば、人間たる根本から外れるなよ、というわけで、これは是非その通りにする方がよいでしょう。ここで「範」。この場合は「先人の示した規範の示すあるべき姿から逸脱すんなよ」という意味が濃くなるでしょうか。これは、釘を刺すというよりは皮肉とかアイロニーとかが存分に込められた風に筆者は捉えています。上から目線な言い草、という風に。かつ、先人の範疇に(あ、これにも範が)留まることをダイレクトに要求していてなんだか嫌です。

 

 いずれの指摘も、「話し言葉の間は全く役に立たない」議論でして、ここまで読んできた皆様を相当に裏切っていることは自覚しています。すんません。「範を超える」が常用されるのは、なんだか事なかれな印象があります。漸進していくには、「矩を超えず範を超えて」いく気持ちもいるかなあ、というのが残った雑感です。

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