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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 このところ夕立の降る日が多い気がする。突然にやってきてふと気がつけば止んでいる。その刹那性が我々の心をつかみ、いろいろな考えをめぐらすきっかけを与えるのかもしれない。私は「夕立」を読んでそのような思いを新たにし、筆者の感受性に感服したのだった。
 とくに、夕立の音に関して、時間の流れを変える性質があることを指摘する部分が印象に残った。友人との会話が切り替わるというのも言われてみればその通りだし、自分ひとりでいるときも、一息ついたり何かに取り掛かったりするきっかけになることがしばしばだ。
 ひとりで部屋にいるときは、わざわざ窓を開けることもなく、ただ夕立の音のみを聞く。そうすると、街の音がする、という気がしてくる。雨粒は、無差別にいろいろなものを叩いては散る。私のうちの屋根瓦、隣のガレージのトタン屋根、道路のアスファルト、マンホール、街路樹、野良犬の背中……。すべてがひとつになって聞こえてくるのである。
 雨は、天空からの水の落下というそれだけの現象だけれど、地上に何が待ち構えているかによって奏でる音楽は変わってくるはずだ。この夕立が隣町に去って行ったら、そこではどんな音がするのだろう。ヴェネツィアに降る雨はどんな音がするのだろう。ジャングルの雨はどんな音がするのだろう。
 夏の夕立は確かに憎まれっ子かもしれない。しかし、梅雨時とか冬のはじめの雨と違って、笑い飛ばせる程度の憎まれっ子である。突然降られてびしょ濡れになってもご愛敬。体を乾かしながら、自分の街の音に耳を傾けてみるのも一興である。
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  火曜日の記事を読んでいて、昔は三時のおやつ、五時のおやつ、六時の味噌汁を欠かさず食っていてデブってたことを思い出しました。
六、七年経つのですが体重は身長ほど変わってません。いや身長だって変わってねぇけどさ。
  それはいいとして、今は昔ほどガツガツ食ってません。それは勿論年をとるにつれて身の丈に合った量というものが分かってきたからってのもあるのでしょうが、それよりも写真で自分の姿を見たときからか、体重計に乗っかったときからか、今のままデブってるのは嫌だって思いが芽生えたのが何よりの原因だったのでしょう。自分は過剰な食欲に身を委ねてはいけないのだとわかったのです。この失敗によって、いつもいつも腹一杯食っててはいけないんだなという思いが心のどこかに度々現れるようになりました。そして段々食う量は減っていきました。やがて減った量でも満足できるようになり、体格も普通になっていきました。食べる量を自分の体に合わせることに成功したという点で、私は失敗によって成長したのです。
  自分の記憶をたどってみるとなぜか失敗ばかりが浮かんでくるものです。確かに今までしでかした失敗は数多いですが、かといって全然成功したことがないわけでもないはずです。ではなぜ失敗ばかりが浮かぶのかというと、失敗の方が頭に残りやすいからなんでしょうね。で何で残りやすいのかというと、失敗によって生まれた特徴や考え方が今の自分にも残っているからではないかと思うのです。しかもそうした特徴や考え方というのは、失敗を繰り返さないようにと努力した形跡、あるいは結果を持つので、どちらかというと自分の長所だと言えるものが多いのではないでしょうか。無論記憶に残っている過去の失敗のすべてに努力の跡などが見られるわけではないけれど、それでも今の自分とつながるものは多いように思います。
  自分の失敗談を自慢話のように言うのは単なる愚痴で、それはそれで面白いものですが、今の自分の考え方などがそもそもどこからきたんだろうかとか、失敗が失敗のままになってないかなーとか、たまには考えてみてもいいと思いました。

 夕立の非日常性は素敵なものだなと最近よく思います。聴覚視覚,時折嗅覚触覚で何か特別な印象を受けます。聴覚は雷と,急緩ついた豪雨の音。視覚はいきなりの暗幕としての雷雲と,夕焼けの色した薄い雲の混在。嗅覚というのは一瞬だけ降った後の雨の匂い。触覚は傘が無かった時は特に実感。味覚は無いのでしょうか。夕立の味。個人的には梅のゼリーのような味ではないかと思ったのですが。

 

 私は特に視覚の点が好みです。夕立というとやはりいい印象を持つ人はまれで,うっかり対策を怠った日にはそりゃあもう悲惨な有様になるわけで,私も何度洗濯物や自分自身我が濡鼠になったことか分かりません。しかしふと空を見やった時に群青と紅蓮…というと大げさではありますが,まあそれくらいの色合いが見えた時から,その期待もあって夕立というものが好きになっていきました。加えて,中学の時に一度だけ見たのですが,雨が上がった後に夕日が濡れた地面を照らして,丁度うまく光が反射して視界全てが黄金に染まった景色が忘れられません。そこまで偶然な情景でなくとも暗雲に塞がれた天気の後に突き抜けるような光が差し込む様子は,夕立ならではと言えるでしょう。

 

 雷の音。ひっくり返るような豪雨の音。これらも,それまで忙しくしていた手を止めてちょっと見やったり,友人との話の流れが変わったり。何かしら平凡ではなくなるきっかけになっているように感じます。閉塞感をある意味打破してくれるほどの勢い(但し,三日も続くと逆に閉塞する)が夕立にはあり,迷惑だなどと思わないでちょっと見やってほしいものです。

 北京五輪の開会式の入場行進を見ながらこれを書いています。〆切ぎりぎりです。

 入場する国の名前が、まずフランス語と英語で(IOCの公用語であるため)読まれて、最後に開催国の言語で読まれるわけでありますけれども、欧米の都市が開催国だったりすると同じような発音が三回連呼されるばかりで実にシュールです。
 そこんところ今年は中国語なので、中国語ではどんな発音になるのだろうという楽しみも持ちつつ入場行進を見ております。
 中国語の発音、それから選手団代表の持っているプラカードに書いてある文字を見て思うのは、どの文字がどんな発音をしているのかが非常に分かりやすいと言うこと。例えば日本語だと「は」と書いても「ふぁ」と書いても音の長さは変わらないけれども文字数は違っているし、朝鮮語なんかは中国語に忠実なふりをして、パッチムなんていう発音されない部分があったり、それが前後関係によって発音されたりと忙しいのです。中国語は一文字一音節!長母音と短母音の区別もない!(あんまり詳しくないので多分ですが)実に簡潔で合理的な文字体系。これって案外珍しいことなのです。
 中国文化の特異性が開会式ひとつ見てもいろいろと分かるのでした。

8/7
一瞬前の自分は、もう自分ではない、と感じることがある。

 私は、大学に通うにしても、バイトに行くにしても、長時間電車に乗っていることが多い。読みたい本があったり、何かやらなければならない課題があったりする場合を除いて、電車の中ですることといったら、空想に耽るか、考え事をするか、寝るか、の三択である。
 電車の中で、空想に耽っていると、思いがけず、自分で、おお、と思うようなことをひらめくことがある。これは創作に活かすことができるぞ。帰ったら形にしてみるかな。――そんなことを思いながら自宅に戻って、いざ形にしようと思っても、ひらめいたときは一種の感動のようなものさえ覚えたはずのことが、ちっとも頭に浮かばなくなっている。
 電車の中で、考え事をしていると、自分でも納得のいく結論に到達することがある。ああ、うん。成る程。これからの自分の教訓になるな。――そう思ったはずなのに、次の日の同じ時間、同じ電車の中で、同じことをぐるぐる考えていたりする。
 電車の中で、寝ていると、眠りが浅いからか夢をよく見る。夢というのは、大抵が、因果関係がめちゃくちゃなものなので、話の筋もなにもあったものではないが、時折、物事と物事が、自分が普段考えているときには思いもつかないような結びつきを見せて、面白い、と感じることがある。ああ、これももしかしたら、創作の種になるかもしれないな。――そんなことを思いながら、自分の意識がはっきりしてくる頃には、ただ面白かったという自分の感情しか残っておらず、肝心の夢の内容は全く思い出せない。
 
 以上が、一瞬前の自分は、もう自分ではないと感じるときである。どれもこれも、自分で考え、思い、処理したはずのことであるのに、ちっとも思い出せなくて歯痒い。一瞬前の自分の心、頭にあったものが、他人のそれと同じように、全くわからなくなる。

 ある日、いつ書いたかのかもわからない自分の走り書きを見つけた。読んでみると、過去の自分が確かに書いたことであるのに、他人の考えを知ることのできたときのような、新鮮さがあった。一瞬一瞬の自分の考え、ひらめき、思い。自分の中で、思い出せるのはほんの一握りだ。しかも、思いついたそのときの、そのままの形で、自分の中に留めているつもりでも、時の経過と共に、それはどんどん変容していく。けれど、見つけた自分の走り書きにあった自分自身の考えは、思いついたそのときのまま、確かに残っていた。

 私は、最近、鞄の中に常に小さなノートブックを忍ばせている。

私の読書量は本を携えて暇のある時には読み進める程度のもので、読書家というにはまったく程遠い。好きな作家は・・・?と問われて即答できるほど多くの本を読み込んでいるわけではない。実にお恥ずかしい限りだが。

 しかし好きな雰囲気の本、というものはある。私は昔はスカッとする歴史小説を好んでいたが、今読んでいる本を(寝床に積み重ねている本たちを)眺めてみると、背伸びをした専門書・詩集・美容書など統一性がない。しかし、小説に限っていえば作者は様々だがそれらはどうも共通の雰囲気を持っている。私の好きな雰囲気というのはどうも色で表すと薄汚い茶色でどんよりした空気に包まれたものなのだ。その小説に出てくる建物は古びていて、主人公はいたって人間臭い(もしくはそれが行き過ぎて狂気と化している)、とくに大きな出来事が作中でおこるわけではない。ただじっくりと、のそのそと時間が流れていく話が多い。そして時々少しのエロスがある。しかし、それもまた無気力なエロスなのだ。

 だから私の読書タイムはなんだか薄汚いしめったにおいが漂ってくる、あまり健康的なものではない。しかし、それが好きだ。

 そういう世界に浸った後、ぱっと窓の外の夕焼けを見た瞬間は絶妙な気分だ。あぁ綺麗な現実だなぁ、とひしと感じるのだ。薄汚い世界はきっとすべてお話の中のことなのだ・・・なんとも馬鹿らしく卑屈な感覚だが、この現実世界と本の世界の行き来が幸せを感じる1つの手段なのだ。

  今日スイーツパラダイスに行ってきました。そう、スイパラ。うふふ。パスタもあるしケーキは大量。でも毎度のことながら、ケーキを食べている途中で気持ち悪くなって、「うっぷ」ってなりました。甘すぎて気持ち悪くなるのです。やはり、というか、甘いものは適量がベストなんだと実感します。甘いものは少し食べるからおいしいんだ、と反省します。けれどどうせ、また行ってしまうのです。甘いものを死ぬほど食べたいと思ってしまうのです。これは女の子なら大概は分かってくれると思います。一種女の性なのです。皮下脂肪を簡単に増やせるのは甘いものだと、遺伝子が指示してくるのです。多分。
  さてさて、甘いものに「うっぷ」となっている時、パスタなどのご飯ものに手が伸びないかというと、そうではありません。もちろんお腹がいっぱいになっていたら物理的に仕方ないのですが、大概の場合、ケーキに飽き飽きしているところにコンソメスープを飲んだら気持ちの悪さも収まります。そしてコンソメスープの美味しさに感動します。パスタに手が伸びます。このことを考えると、甘いものは少しでいいのです、人間の体には。けれどご飯はやっぱり、十分量必要なのです、人間の体には。ご飯ものに胸が悪くなって「うっぷ」な気分になることはまあそう滅多にないでしょう。今日はそれを、身を以て体験しました。
  あと、食に関してもうひとつ思うことがあるとすれば、女性の方が食欲は旺盛だなあということです。食べる量ではありません。食への執着が、男性に比べてかなり大きいような気がするのです。ダイエットが成功しにくいのも、それが一因となっているのではないかしら。
・・・なんて、遺伝子のせいにしたりして 。はは。
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