05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
私が間違って一日はやく掲載しました。
編集長
なんだか、とんでもないタイトルをつけてしまいましたね。残念ながら、とくにあの有名作に関する話ではありません。私はまだ読んですらいないのですから。
将来を思い描きます、普段使い慣れていない想像力をできるだけ働かせて。将来勉強したいこと、就きたい仕事、楽しみたい趣味、持ちたい家庭、理想的な人生の終幕・・・将来といえばこういったことしか思いつかないが、その限りにおいてめいっぱい想像をしてみます。もちろんその想像は一定の努力が伴えば、実現可能なことです。そういう意味で「想像」というより「予想」に近いものでしょう。私が長く生きれば生きるほどに、将来の予想は明確になってゆきます。これは当然のことなのです。小学生のころに描いた夢と現時点からみる将来像を比較すれば、そこにある現実性には大きな違いがあります。質という点で。将来像は年を重ねるごとにどんどん選択肢をせばめてゆきます。
私がこれから学ぼうとしている一つの分野についても同じことが言えるでしょう。法の根拠は正義です、では正義の根拠はどこにあるのでしょう?私たちの生活を包括的に規定する法は、西洋近代の生まれです。しかし前近代のそれと優劣がつけられるでしょうか?自然科学とは異なる論理構成で、争いを抽象化して具体例に還元します。この方法は正しいのでしょうか?そんなことを考えてみると、私が学ぼうとしているものはいったい現実世界においてどういう役割を占めているのか分からなくなります。専門的なことを学べば学ぶほど、多様性に満ちた現実世界か遠のいていく気がしてなかなか一歩が踏み出せません。学ぶにつれて選択肢が、視野が、せばまってゆく気がするのです。
将来も、学問も、全体を見る目が不可欠でしょう。今、自分がその世界のどこにいるのか、そしてどこに向かおうとしているのか、地に足を着けた自分とそれを上から見下ろすもう一人の自分が必要なのではないでしょうか。決して、そうすることによって多数派に付け!といっているわけでは無いのです。ただ自信を持った上で他者理解をするために、きっと大事なことなのだと思います。
私はまだまだ上から見下ろすための浮力を持っていません。そもそも地に足を着けてもいません。まだ靴を履きかけている途中です。靴を履いたら、とりあえずは草むらを掻き分けてみようかと思っています。掻き分けているうちに、上に飛び上がるための羽が見つかるかもしれない。
私は柴犬を飼っていて、それなりに可愛がっている。彼の仕事はもっぱら愛玩されることで、多少は番犬の役割も果たしている。それ以外の時間はとにかく寝ている。犬は一日に14~15時間寝るらしい。夢を見ているのか、時折足を動かしたり、突然吠えてその声で自分がビクッとなったりする。
そんな彼を見ていて一番面白いのが、ご褒美やおやつをもらった時の喜びようだ。特に、豚の耳や牛のアキレス腱など、よく噛んで味わう堅いものの時に、その喜びが激しく表現される。名づけて「よろこびのダンス」。まず、その「えもの」を直視せずにおもむろに近づき、偶然見つけたかのようにハッと目を開く。そして「えもの」を前脚や口先で転がし、その感触を確かめる。その後もなかなか「えもの」を咥えたり足で押えこんだりしようとせず、頭を伏せ尻を突き出した戦闘態勢でその周りを飛び回る。明らかに、「えものが生きていて捕まえるのに苦労している」というシチュエーションを自ら演出しているのだ。
ホイジンガは我々人間を他の動物から区別して、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)という名を与えたが、遊ぶのは人ばかりではないと、彼を見ていつも思う。彼がやっていることは、幼児がする「おままごと」と本質的に変わりない。動かぬ肉片を生きた獲物とみなし、生きている証拠である獲物の「動き」は自作自演する。完全なる「狩りゲーム」を彼は創造し、自らを楽しませているのだ。
彼の散歩をしていたら、彼がふと足を止めた。視線の先には猫がいて、道端にはえた猫じゃらしとひとりでじゃれていた。実に楽しそうだった。今日のテーマは16世紀のイギリス王妃アン・ブーリンの一生でした。この人を主役にした映画も公開されているそうで、その映像も交じえて番組は進行していたのですが、このくらいの時代の話を聞いていつも思うのは、昔の貴族は本当にあんな格好していたのか?ということです。
現代の我々とあまりにかけ離れて豪華で、ファンタジーの作り物にしか思えない時もあります。王妃や王の肖像画も、顔はしっかり人間ですがそのドレスの物凄さゆえに、その人間の実在さえもしばしば疑ってしまうのです。
しかし今回、ちょっと変わったことがありました。エリザベス一世は実はアン・ブーリンの娘であるのですが、番組の中でエリザベスの指輪が紹介されていました。指輪にはロケットがついており、それを開くとエリザベス本人と、アン・ブーリンの肖像が現れるのです。
その肖像の二人はいつも通りの豪華な衣装をまとった姿でした。しかしこれを観た時、私には急にその二人の存在が生々しく感じられました。というのも、エリザベスはイギリス王国の女王、象徴という立場を強く意識したかなり印象的な衣装をまとっていた中で、他人に見せる目的とは思えない母の肖像を指輪として肌身離さず持っていたからです。我々には現実離れした格好に思われるアン・ブーリンが、エリザベスにとっては正に強く慕う母であったことが分かります。
そんなエリザベスの思いがあったことを感じると、二人の存在を疑うことがちょっとできなくなりました。変な格好してるけれども、この二人の関係は確かに在ったんだなと思わざるをえない。初めて遠い歴史を実感した瞬間なのでした。
-------------------
ペアレント。という英単語は、単数形だと父、または母、つまり片親を表すわけなんだけれども、これって違和感、ありませんか?
確か中学校で最初に習ったときはペアレンツ、と複数形で、その意味は両親、と覚えさせられたんだよね。その時にペア=二人組という間違ったイメージが、意識的か否かはともかく、頭の中でできあがっていて、語尾が「ト」だろうが「ツ」だろうが両親、って思っちゃうんだ。
言語学で「誤った回帰(false regression, hypercorrection)」という現象があって、その内容は調べてくれたら結構簡単に分かると思うんだけども、これも別の地域・時代の言語が出会うことであらぬ方向へ言語が変化することなのね。
こういうことって、昔よりも増えてるんじゃないかって思うんだ。つまりグローバル化?ボーダレス化?境界が薄くなっていくことで世界が画一化してしまうという危惧はよくきかれるけど、その一方で境界の向こうにある文化を誤解して、二者が交じってるようで交じってなくて、よりそれぞれの個性を強めあったりして、っていうこともあるんだって。ただ厄介なことに、単純に交じり合って画一化する場合ももちろんたくさんあって、それは境界を取っ払ってみないと分からないような気がする。シュレディンガーの猫みたいな感じだね。違うか。
秋の空は高い。どーんと高い。そこに雲が,遠くの台風からの風を受けてか,なめらかに流れていく。なんとも美しい。プラネタリウムの昼版というのはなかなか作りえないだろうな,とよく思う。こんな時つい「翼があったら飛んでいくのに」という何とも可愛らしい一言を言う人もいるかもしれない。
「もし,翼があったなら」。古来から実によく聞く表現である。羽毛田丈史氏の音楽にもある。グーグルで「翼があったなら」で検索すると約880万件ヒットした。ヤフーなら約963万件である。英語なら“I wish I were a bird”というのが聞き覚えがある。もちろん仮定法なのでカエシがあるが。
鳥になって大空を舞う…。なんともロマンチックである。そしてライト兄弟いやイカロスあたりまでそのロマンを追い求めた,というのも必ず学校にいる年頃に聞きかじる話である。
しかし,人間のいけない領域に行くことを切望するなら,何故「もし,鰓があったなら」という表現は無いのだろうか。グーグルで「鰓があったなら」で検索したが,まともに文章が入っていたのは4件。ヤフーは文章が入っていたヒット数ゼロ。スキューバダイビングの完成に尽力した人の話など偉人伝にも無い。
この差は何だろう。何故大空を舞うのはロマンチックで,深海を舞うのは語られないのだ!なんとも分からない。意見を公募したいくらいである。とかく人間は自分に無い能力に憧れる。今では両方の能力を代替させることに成功しているものの,やはり鳥に憧れる声はやまない。しかし,何故これほど人は魚に憧れないのか。かく言う自分も魚になりたいとはあまり思わないが,空は飛んでみたいと思う。何故だろうか。
自分が飛びたいと思うシチュエーションはたいがい地面の上である。そして空を眺めている時である。海や湖などのそばに立って見下ろすなかで憧れは生まれない。それに魅力が無いわけではないのに。
この夏人気を博したかの有名なアニメ映画についての評価は賛否両論といったところだろうか。(私も耳について離れないあの歌と世の中の「流行」のために、劇場まで足を運んだ人間の一人である。)いやむしろ、その評価は賛と否と二元的に分類するよりも、広さ・深さとともに広がっているといってよい。概して子供向けだ・癒される・抽象的だといった感想が多く見受けられる作品だが、多数派が持つ感想が作者の真意だとは限らない。
この映画に対する見方のうちのひとつは私がインターネット上で見かけたものだが、それは神話学と本作の関連性に着目し、登場キャラクターの行動や作中の何気ない場面に象徴的な意味を与えている。その批評をふまえて改めてアニメを頭の中で再現すると、なるほど、恐ろしい具合にその批評と作品とのつじつまが合う。残念ながらその内容が本題ではないので割愛させてもらう。しかしながら、これはよくある都市伝説的なもの・裏を読もうとしてこじつけに走ったものとしても十分捉えうる。もちろん逆に、これは「子供を楽しませる」という設定の裏に隠された「大人を楽しませる」ための綿密すぎる作者の遊び心かもしれない。
どちらが事実であれ、その作品の見方が変わるだけで何度見ても繰り返されるアニメーションは1回目見たものとなんら変わりはない。受け手にゆだねられたものによってその作品の評価が決まるのだろうか。こういったこじつけめいたものは穿った見方をしたからだろうか?童心ならば作者の思惑通りこのアニメを存分に楽しめただろうか?私はただ単純に、「抽象的だなぁ・・・解釈はこちら側に委ねられているなぁ。」と思いつつ、それなりに(きっと子供らしく)その作品を楽しんだ。
「感受性」という言葉が頭をよぎる。私はごく一般的もしくはそれ以下の感受性の持ち主だ。と思っている。(そもそも感受性に優劣はないが、適当な言葉が思いつかないので「以下」と使う)本を読むときだって行間を味わったりしない、字面を目で追って内容をそれなりに再現する。再現された人物や家はどこかで見たことのあるもので、zeroから再現する想像力はとんとない。評論だって物語だって数日もすればすぐに忘れてしまう。一方で子供のころのような純粋な気持ちでものを見ることもできなくなっている。作品の批評に予め目を通せば、いくら自分らしく捉えようとしてもある種のフィルターがかかってしまう。これらのことは私を実に情けない気持ちにさせ、今までの人生の貴重な時間を浪費した気分にさせるのだ。ならば、穿った読み方を意識すればよいのか?徹底的に精読することが理想なのか?