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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 京都祇園。なんて素敵なお店なのだろう、そう思って勇気を振り絞って足を踏み入れる。しかし、あいにく予約でいっぱいだといった理由からやんわりと店側に言われてしまう。私個人は気軽に料亭やお茶屋さんに入れるようなご身分ではないが、こういった事例があるそうだ。

これがよく言う「一見さんおことわり」のルールだ。初めての来店の際には常連さんの紹介でないとお店にはいることは出来ない。客側からしれみれば、なんと意地悪(いけず)なんだ!と思ってしまいがちだが、「一見さんおことわり」には京都流のおもてなしの心に端を発している。

初めて来店する「一見さん」は店にとってみればまったくのstrangerだ。身分も好みも経済的地位も何もわからない「ただの人」なのである。相手のことを何一つ知らずして、こころゆくまでのサービスを提供できるだろうか。どんな話題だと場の雰囲気が最良のものとなるか、どれくらいのお値段でご用意したらいいのか・・・。そういった気配りが出来ず、結果ありきたりで没個性的な応対しかできずに、strangerも店の中に入れたのはいいものの最終的にはいやな思いをする。(その上、店の評判も下がる。)という論理に基づいた文化なのである。

サービスは無体の商品を提供している。むやみに笑顔を作ったり、ただただ平身低頭でいること、または必要な情報のみを与えることだけがサービスではない。ベルトコンベアーに乗って流れてくる没個性的・画一化された「ただの人間」に対して、何も考えずに無意味なサービスを与えているのではない。○○さんという人間と私という人間をつなぐパイプがあってこそのサービスだ。親しい友達に喜んでもらうことは容易だが、道行くstrangerに喜んでもらうことはなかなか大変だ。相手を知らずしてもてなすのは失礼だ。そんな「一見さんおことわり」はサービスの極地ではないだろうか。
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午前8時ちょうど発のバスを待っていたら、道の反対側にゴミ収集車が止まった。粗大ゴミの回収に来たようだ。頑丈な体つきの若い清掃員が二人、助手席から飛び降りて車の背後に回る。走行中のエンジン音とは打って変わって、ゴミ処理装置の刃を回すモーターが高らかにうなり始めた。

清掃員に担ぎ出され、街路樹の陰から姿を見せたのは、本棚とソファーそれぞれ二つずつだった。多少古めかしい感じはしたが、使えないほどボロボロには見えない。引越か何かの際に邪魔になったから、廃棄されることになったのだろう。

手始めに清掃員が本棚の小さい方を持ち上げ、横向けにして処理装置に突っ込む。本棚は、激しく音を立てながら、瞬く間に回転刃によって喰い潰されていく。みるみるうちに本棚の形状を失い、木片の集積へと化した。大きいほうの本棚も二人がかりで抱えられ、刃と刃の間にタイミングよく押し込められて機械の餌食になった。

ソファーの最期はもっと残酷だった。機械の刃は、あのやわらかい綿の上から無理やりに噛みつき、木でできた内部の骨組みをバラバラにした。そしてその破片が、綿を引き裂き表面の布を破った。

本棚とは、本やその他の小物を置くための道具である。ソファーとは、快適に座るための道具である。彼らが本棚として、あるいはソファーとしての機能を持つのは、ひとえに彼らが本棚の形、ソファーの形をしているからである。道具というものはおよそ、その機能に見合った特有の形状を持っているのである。あの本棚は、処理装置に呑み込まれる直前までは、間違いなく本棚であった。そして彼の「本棚性」は一瞬で暴力的に消えた。

我々は日々モノを捨てるけれど、未だ形状を保ち、道具としての機能を果たしているのに捨ててしまうことが意外に多い。「壊すは易し、創るは難し」……多くは語らなかったけれど、今やあの清掃車の胃袋に収まった彼らから、そんな訴えを受けとった気がした。

 電車の一番端で、走る方向と逆の方の車両の更に一番端に座ると、運転室の窓を通して電車が走ってきた風景を見ることができる。このように進むのとは反対の風景を見ることができるのはなかなか珍しい。
 同じように後ろを見るにしても、車から覗くのとは全然違う。車は室内そのものが狭く広く見通す余裕はない。しかし電車の運転席の窓は見通しの良い大きさであるから、かなりの広さの風景を見通すことができる。
 そしてもう一点に、車は窮々と列を連ねることが多いが、電車は後ろに迫り来るものがまずない。そんな環境が、気持ちをゆったりとさせる。
 電車は傍から見れば車以上の速さで進んでいるはずだが、後ろを眺めているとなぜかそんな速さを感じない。少しずつ見える風景が広がっていく一方で、最初に見た風景はだんだん遠のいていく。
 ゆったりとした気持ちで広々と時間の経過に似た風景の移り変わりを眺めていると、ついいろんなことを思い出してしまう。そして時が流れていることを感じる。やがて電車が止まってしまうと、現実の時間に降り戻されるように、その感覚は消えてしまう。普段忙しい人ほど感覚の振れ幅は大きくなることだろう。
 そういえば2時間ドラマのエンディングなんかには、同じ風景がよく用いられる。見ているうちに、ドラマの中の出来事をゆっくり思い返そうという気分にさせられる。なかなか選び抜かれた背景だったんだな、と思う。

いわし雲

 

秋の夜長に月影見れば

空に一面うろこの姿

ぼやけた月の笠がけ灯り

ほんのり照らす雲の粒

 

夏の盛りに聳えた空の

大入道の猛々しさよ

今は萎え果てその身をひそめ

寂れた風に千切られる

 

ああいわし雲いきものたちが

細かく砂になりゆくように

あの雲もまた身の果て知って

秋の夜長に儚げに

 

空一面の千切れた雲の

一つ一つに漂う季節

巡る時空に何を想うか

秋空覆ういわし雲

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 季節はずれのそんな短歌。といってもこの短歌に季節なんて関係なく、何でもないフツーの日のフツーの出来事を記念したくなるぐらい私は幸せなのよっていう短歌なのよっていう私の認識で、7月6日っていうのは出来るだけ何でもないフツーの日を選んで、サラダっていうのは出来るだけ何でもない料理を、ってちょっと待ちなさいな。サラダて。
 作者が意図したかどうかは別に問題ではないのですけれども、せっかくの31文字を「フツーの幸せ」で済ませてしまっては短歌という芸術に対して失礼なので、ちょっと穿ってみましょうよっていうことですよ。
 サラダっていうのは「野菜などを塩、酢、油、香辛料などで和えて盛りつけた料理の総称」とウィキペディアにあって、一般的にそれほど手間のかかるものではないし、味の優劣が問題になる機会も少ない料理だと思います。それを男が女に向かって「この味がいいね」という状況や如何に。
 女の子が一生懸命作った料理を「美味しいね」なんつって褒めて「ありがとう」なんつってそんな新婚の甘ったるい空気の中では「この味がいいね」という白々しい台詞は生まれないでしょう。きっとこの男は前日出されたサラダのドレッシングが気に入らなかったのです。「何か前のドレッシングの方が良かったなあ」「あらそう。じゃあまた前のを買っておきますよ」「ああ、ありがとう。」そして翌日のサラダは今までと同じ美味しいサラダ。「やっぱりこの味がいいね」「じゃあこれからもそのドレッシングにするわね」
 フツーの幸せなんてものでもない、本当に「ただのフツー」の夫婦の会話を想像する方がこの短歌は楽しいような気がします。日付は7月6日。七夕の前日ですが新暦なので梅雨は明けていません。じとじとと雨が降っていてそれほど気分が良いわけでもないし、かといって特に悪いわけでもない。そしていつも通りの食卓。何気ない会話でこれからのドレッシングの銘柄、いつぬりかえられるとも知れない協定が取り決められた、それだけの日。だから何、といわれてもそれだけ。それがサラダ記念日。

 少し余談をしておくと7月6日はこの短歌にちなんで「記念日の日」とされているらしいです。記念日って何?そんなことを考えさせるための短歌だったのかも知れません。

そのとき一番書きたいこと、心の中を大きく占めているもののことは、存外書けないものだな、と思う。
 以前、文章が書けないということを書いた。そのときは、言葉が浮かんでこないために書けない、と書いたが、逆もまたそうなのだと思う。言葉が次から次へと浮かんできて、書けないのだ。
 文章を書くときには、普段考えていることや、ふいに考えを廻らせたことを書くのが、私にとって一番すんなりと文章を生むことができる方法なのだが、普段考えていることでも、それが自分にとってあまりに大きいものだと収拾がつかなくなる。頭が物凄い速度で回転し、次から次へと考えとしての言葉が浮かんでは消えていく。関係なかったと思っていたこと同士が結びつきはじめて、始めに書こうと思っていた範囲のことから、もっと大きな範囲へ、もしくは、もっと違った範囲の話へ思考はとんでいき、そのうち思考に手が追いつかなくなる。その思考がある程度自分なりの結論なり、帰着点なりを見つけて、まとまりを見せたときはまだいいが、それさえも見つけられずに、ぐるぐると思考の渦に呑み込まれれば、もうおしまいだ。こうなったら思考を形にするのはなかなか難しいし、たとえできたとしても、あまりにまとまりのない、長大なものになるだろう。
 普段は、たとえ思考の渦に呑み込まれても、その途中にある何かを取り出して、ちょうどいい長さのものにしてしまうのだが、たまに何か物足りなくなる。この物足りなさを生むのは、恐らく、自分の中にある、この思考の渦を全て表現してしまいたいという欲求なのだろう。いつかこの大きな思考の渦を飼い慣らした上で、文章に限らずとも、何かしらの形にしたいものだ。
不意の出来事、些細な出来事、時の流れ、そういったもので、ごく当たり前だと思っていたことが、儚くも当たり前でなくなってしまうことが、私にとって一番辛いことなのかもしれない。

ドラマや映画を見ているとき、本を読んでいるとき、日々の生活を送っているとき、何によって、胸を締め付けられるように感じたり、涙が溢れ出してしまったりするのかを考えていた。
高校三年の夏休み、ある映画でぼろぼろに泣いた。映画の主人公が、ちょうど自分と同じ高校生で気持ちが同調しやすかった、というのもあるかもしれないが、主人公が、いつも隣にいた人ともう二度と会えなくなってしまう、そのことが、とにかく自分でも驚くぐらいの涙を流させた。
 このときのことや、それより以前の経験から、私は「別れ」というものに弱いのだろうかと思っていたのだが、考えを廻らせながら、「別れ」そのものに弱いというよりは、むしろそれによって引き起こされる「日常の崩壊」というものに弱いのではないかと思った。
 こう考えると、高校三年の二月頃、時折、不意にわけもなく泣きそうになっていたのは、(時期的に情緒不安定だったということも勿論あるだろうが、)目前に迫る卒業式によって訪れる「日常の崩壊」を感じていたからかもしれないと思える。
 小説などには、よく、同じことが繰り返される毎日に退屈を感じる人物が登場するが、自分は存外、この「同じことが繰り返される毎日」が大切なようだ。実のところ、同じことが繰り返される「ように感じる」だけで、同じことが繰り返される毎日など存在しないというのが私の考えではあるが、それでも、同じように感じる、当たり前だと思える、そんな日常が私にとっては大切で、また、そんなふうに思える日常を過ごせていることを幸せに思う。
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