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2ヶ月ほど前から日記をつけ始めていてそれなりに色々書いてもいたのだが、3日坊主ならぬ3週坊主となり、ここ最近はめっきりつけられていない。
そもそも日記をつけ始めたのは、頭の中に色んな考えが浮かんでは消えていくということが多くなって、どこかにその考えを残しておきたいと思ったからである。
例えばデイリー孝太郎の執筆者なら分かると思うが、今週どんなものを書こうかと悩んでいると、必ず私的すぎてウェブに公開できないけれど自分としては結構面白い文章が一つや二つ思い浮かんだりするものである。文章を考えるのはなかなかしんどいものであるし他人にも是非読んでもらいたいと思うけれど、公開することができない。そしてそのまま放っておけばやがて忘れてしまう。それは勿体ない。
こんな葛藤を晴らしてくれるのが日記であった。思い付いたが投稿できない文章をいわば裏・孝太郎として日記にストックし、いつか日の目を見させてやろうと暖め続けるのである。
こんな感じで日記は私にとってそれなりに重要な役割を担うものであったのだが、日記をつけるとなると頭が自然と身構えるのか、つける前ほど色々浮かんでこなくなる。生活も極めて単調であるからやがてとりたてて書くこともなくなる。何より毎日つけるのは面倒くさい。かくして今に至る。毎日何か書けるという継続性と感性とをしっかり持ち続けるのが大事なんだなぁと分かるだけなのであった。
池上彰氏の書いた「そうだったのか!現代史」のパート2を読んでいる。池上氏は「週刊子どもニュース」でお父さん役を務めていたジャーナリスト,と言えばお分かりの方は多いと思われる。
本は現代史,およそ戦後からイラク戦争にいたるまで,特にややこしい世界の政治的問題を分かりやすく解説するものである。例えば冷戦,核開発,イスラエルといったものからアウン=サン=スー=チー氏,文化大革命やポル・ポトまで,意外と文献や正確な情報の少ないもの,むしろ何を正確とするか掴みにくいものまで,ニュース記事を主として分析している。共感を誘う池上氏のコメントもあって,キナ臭いテーマまで読みやすくなっている。
ところで,このように現代史について読む,ないし書くことがあるたびに,「同時代」という言葉が頭に浮かぶ。生きている間,他人と同じ間の時代,ということであるが,生きていることはこれを意識するには余りに平凡である,とよく感じる。
例えば,学者なんぞはグローバリゼーションの功罪を論じ,この格段に進んだ形を我々の同時代人は体験するであろうに,今はなんともお気楽に多文化主義など言われる。金融危機は世界の構造の脆さを露呈しただろうに,その意義は差し置き雇用問題である。もっとも,これは余りに切実なだけに悪いことではないのだが。
教育においても然り,学級崩壊やいじめ,不登校が広くいわれるようになり,「ゆとり教育」の名の下で学力偏重への改善が行われたかと思いきや,さっそくバックラッシュを食らったのが,我々が小学校~大学生といったところの同時代である。
「や」は優しい音。癒す音。「あ」を包む半母音/y/のクッションは何事も受け入れる優しさ。イ段の全てについて拗音を形成するのも、そういった人当たりの良さから。
や行の「い」というのは、母音/i/の半母音化したものにまた/i/が付くのであるから、実質的にはあ行の「い」と区別が出来ない。しかも、ヤ行で活用する動詞は、古語では「老ゆ」などがあったが、現代語では絶滅してしまっている。五十音の中でも幻の音と呼べるだろう。
「ゆ」はゆらゆらと揺れ、歪んだ夢を見るような幻想的な音。ゆっくりと暖まりゆくお湯のじわじわ。/y/と/u/の微妙な口の変化がゆっくりと空気の流れを変える。
や行の「え」は上代には「いぇ」で、発音上区別があったと推測される。しかし、ワ行の「ゑ」と違い早くにあ行と同化したために、記号を与えられなかったかわいそうな音。
「よ」は寄りつく音。それは夜の闇のように。それは世の中の余計なよしなしごとのように。いつも我々を呼ぶ黄泉の声のように。