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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 人が何を思っているのか知るのはとても難しいことだ。言葉にしてもらったところで本当のことを言っているかどうかは分からないし、言葉が思いを正しく表しているかも分からない。結局のところ、こう思っているのだ、と自分で信じるしかない。かといって他人の言動に疑心暗鬼になってしまっては、この世で生きていくのは困難であろう。とにかくとても厄介なことなのだ。
 分からないのは他人の思うことだけではない。自分の思うことでもよく分からないことが度々ある。例えば自分が善行を行ったとしよう。しかし自分はそれが善行であると分かっており、行為そのものより人々の尊敬の眼差しを得られるであろうことを目的としている。善行を行っている最中、自分は満足感を抱いていた。自分はそれを、目的通り人々の眼を奪うことができたためだと考えるだろう。しかしそれは本当だろうか?そもそも善行を行おうとした自分は本当に最初からそんな打算を頭に浮かべていたのだろうか?
 他者から見れば自分は善行をしただけであり、その果敢な行いを鼻にかけることもしなければ、彼には善なる心があるのだと悟るのみであろう。しかし自分は二つの心があって行動を起こしたことを知っており、一体どちらが本物なのだろう、と悩み続けるのである。
 起こした行動に対する自分と他人の認識はなかなか一致しないため、しばしば厄介な問題を招く。特に自分の中でも整理のつかない行動を他人の認識によって決めつけられてしまうと、そうではないと思う気持ちと葛藤する羽目になる。それほど現実世界で行動は重たく、心は軽い。いっそ行動を起こすことで心を固めてしまうくらいの猛々しさがないと、とても満足にやっていけない。

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 「人の世に熱あれ 人間に光あれ」という水平社の設立宣言。小林少年が読み上げたその文章は,ほんとは人の世に熱あれ “じんかんに”光あれ,と読むのだと習ったのはいつだったでしょうか。

 人間は人の間という文字を書いて,それを「にんげん」と読ませているんですよね。人の間=人。不思議な構造です。こういうのを挙げればきりがないですが。自ずから然り,と書いて自然(しぜん)。読み方を変えることで特有の意味を持たせているわけです。ところでこの文字通りの読みである人間(じんかん),この発想素敵だな,と新年ボケの頭で考えておりました。

 「やさしさ」が人間必須の徳のように喧伝されて久しくなりますが,このやさしさと親切や気遣いとを一番分けるのがこの人間(じんかん)の自覚の有無ではないかと思うのです。直接的に相手にとって好意であること,利便であることをすることはそりゃあ親切で気を遣っているでしょうが,相手との間に何があるかを一気に飛び越してしまって省みないことが時にはある気がします。

 例えば,「私は在日外国人なんだ」と友達がカミングアウトしてきた,という事態。相手を気遣って「それでも君は君だ,仲良くしような」と言うだろう方,そう少なくはないと思います。でも迂闊かもしれません。相手はもしかしたらこれまでとは違うスタンスで向き合うことを宣言したのかもしれません。これからどう接したらいいのか。これは難題です。

 相手との間にある壁のようなものを強烈に突きつけているわけです。相手の言葉と自分の言葉が錯綜する,そしてお互いの状況を如実に示す場所が人間(じんかん)です。この人間(じんかん)がどういった様相をしていて,どのくらいの広さで,などを考えることこそやさしさなのかもしれません。見えるわけないじゃないか,勿論そうです。そこには大いに想像力と相手の言葉への熟考が求められるわけで,そう容易くはないと思います。

 相手,相手たち,社会,そういったものとの距離と様相が分かれば,自然と自分の言葉も選ばれてきそうで,流石は水平社の宣言だなあと実感します。あ,この自然ってのは勿論「自ずから然り」ですよ。

ラ行は、英語でいうエルとアールをカバーしているだけあって、発音の可能範囲が他よりも広い。思いっきり巻き舌にしたっていいし、舌端を口蓋に付けなくったって実は「ら」に聞こえる。

「ら」はおそらく五十音の中でも最も派手な音のひとつ。ぎらぎらと笑う太陽の神の名はエジプトではラーというらしい。巻き舌にすると効果絶大。

「り」を発音するには口を「い」の形に持っていく必要があるが、「い」の口は下を反らせるのに少し不都合である。よって、「り」の発音は実は「di」に近づきがちである。「ぢ」の発音が「dzi」に逃げたのも或いは関係があるかも知れない。

「る」は動詞の活用語尾に欠かすことのできない音。文をあまねく満たしている大事な音。それだけに「る」の発音如何で発話自体のニュアンスを変えることができる。

「れ」も「る」と同様、動詞の活用語尾と助動詞ぐらいにしか現れない音。稀であり、レアなのである。

「ろ」は意外と名詞の語中語尾に使われていて使用範囲が広い。白色、黒色、そろそろその頃。

これからしばらくこの曜日の記事では、クラシック音楽から私が是非聞いてほしい曲、あるいは、まぁ知ってたら楽しいんじゃない?という曲、などを選んでコメントをつけていく、あるいは音楽関連の事柄について興味深い(かもしれない)ことを書くみたいなことをやろうと思う。
こういうやつは名の知れた曲からはじめた方が良いかな。

まずはベートーベンの交響曲(1)。
ベートーベンは交響曲を9つ書いているのだが、有名なのと言えば「運命」と名のついた第5番、「のだめ」で使われていた第7番、日本ではなぜか年末恒例行事のように演奏される「第九」こと第9番あたりだろう(2)。あるいは、「英雄」と呼ばれる第3番も世界史の授業で知っている人もいるだろう。なぜか奇数番号ばかりが並んだが、個人的には第4番が好きである。あと、第6番は「田園」と言ってこちらも必ずやきいたことがあるに違いない。学校で聞かされるからだ。(ところで、日本の音楽教育って、目指すところはベートーベンというか、「ベートーベン神!」というか、そういうベートーベン絶対、みたいな風潮(?)があるよね。まぁ、そういうのを無批判に信じ込んでも、実際ベートーベンはすごいからいいっちゃあいいけど、なんかちょっと違うんですよね。)
とまぁ超がつくほどメジャーなベートーベンの交響曲であるが、きいていて気づくのは、オーケストラの全ての楽器(3)に主役がまわってくるということだ。第九などきけばよくわかるが、ヴァイオリンや木管楽器はもちろん、コントラバスや打楽器にもスポットライトが当たっているように聞こえるのである。なかなか美しいことであるね。一度意識して聞いてみてほしい。
しかし、ベートーベンは重いような軽いような、やっぱり重いような、みたいな感じで、少し難しいと言えば難しい。ベートーベン絶対!クラシックはベートーベン!みたいなところから影響をうけてベートーベンをきいて、なんかしんどいな、クラシック、なんてことになるとしたら残念なことだ(4)。作曲家はまだまだたくさんいるのだから。(このシリーズも長くなる…ということか…)

(1)交響曲とは何?と聞かれてまともに答えようとすると難しい答えしかできないが、とりあえず、弦楽器管楽器打楽器を用いて書かれた、4つの楽章(4曲?いやいや、楽章)からなる大きな曲と思っていればよいかな。
(2)ヨーロッパではあまり日本ほど演奏されない、とどこかで読んだことがある。まぁ規模も大きい(合唱とか独唱者も要るからね)し、わかる気がする。ちなみに難易度はかなり高い。よっぽど第九が好きなんだね、みんな。
(3)ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ティンパニ、その他の打楽器(シンバルとかトライアングルとか大太鼓とか)、などなど。

 (4)しかしベートーベンをきくと、何か安心感のようなものが得られる気がする。

 新年明けましておめでとうございます。年明けと共に新しい服を下ろしたり今年の抱負を考えてみたりと、誰もが清清しい気持ちになれるのはこのお正月のおかげでしょう。

年明けというものは1年365日の中でも際立った1日の最たるものでしょう。太陽の周りをこの星が1周くるりと回ったことに、我々な相当な意味を置いているようです。しかも徐々に僅かながら生じる誤差を調整する、という愚行を犯しながらも。日本は特に季節の変化に富んだ風土を有していますから、まだ1年の感覚というものははっきりとしています。けれど、地球という星はそういうところばかりではないのです。けれどもどの国の人々もひどく大切な一日として年明けを過ごします。1年というサイクルを利用して年齢なんて概念も作りました。

日本では20年経てば人は成人し、60年経てば還暦を迎えます。1年の終わりと共に、自身の生活や生き方を振り返ったり、生きていることに喜びを感じたりします。ただただ本能に身を任せて暮らしていれば良いものを、人間というのはひどくストイックな存在だなぁと感じました。

まもなく成人の日を迎えます。私は成人となってもう何ヶ月かが経ちましたが、この成人に日に改めて、そしてちょっと白々しくも「成人したんだなぁ」と感じ、きっとお正月のように人生の目標なんかを立てているのでしょう。通過儀礼と言いますか、何かから何かへと変わる区切り目というのは思ったよりも、我々の生き方を良くも悪くも規定している気がしました。

けれど、こんな風に頭で考えるよりも大自然・大宇宙が持つ我々への影響力というのはもっと大きなものかもしれません。天文学が無くても、カレンダーが無くても、我々はちゃんと1年をこの肌で感じていたのかもしれません。今となってはもう分かりません。いずれにせよ、西暦2009年が始まりました。今回の公転1周分も、皆さんにとって有意義な期間となりますように。
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 新年明けましておめでとうございます。今年も日曜日の執筆を担当させていただきます、よろしくお願いします。
 さて新年と言えば初詣ですが、今年は珍しく一月一日に初詣に行くことができました。ちらほら雪が降る寒い日に、わざわざ長い列に並んで金を捨てに行くという変な慣行もやって参りました。
 賽銭箱の前で合掌して今年のお願いをするわけですが、眼を瞑ってみると去年、一昨年、過去十数年の今頃そこで願っていたことが少しずつ思い出されていくのです。自分自身は単純な性格なので願い事も至極分かりやすいものばかりなのですが、当時の自分が一番何に必死になっていたのか、どんな状況にあったのか、というのがきわめて主観的な形の記憶で思い出され、さらには昔の自分の主観と今の自分の主観とが頭の中で並び浮かべられるという、稀な事態に陥ります。せっかくの新年早々に気持ちを一新するどころか、過去を振り返るはめになるのです。具体的な記憶が蘇ると色々考え込んでしまうもので、今年はこうするぞ、という決意から頭がどんどん離れていってしまう。
 さすがに来年もこんなことになっては困る。そう思い、今年はできるだけ色んなことを思い出さないような、あまりつかみどころのないお願いをすることにしました。少しお願いとするには漫然としすぎたものであり、今の自分というものが少しも出てこないものとなったのですが、まぁ良いでしょう。人事を尽くし天命を待つ。今年も一年頑張っていこうと思います。

 年の初めの試し書き。

 風の祝詞

  向かい風
  呼吸器に新鮮な情熱がなだれ込む
  まだ生まれていない笑い声の香り
  肺胞から私の血液へ
  
  地球はやはり回転を続け
  木はその幹を太くする
  その轟音が聞こえる朝に
  笑い声の主が
  希望を持てと励ましてくれた

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