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〈参〉『孝太郎』の半生
『孝太郎』の歩みは2005年11月11日の創刊に始まり、ちょうど1年間・計8回の雑誌刊行と、その後のオンライン上での活動という大枠で語ることができる。だが、もう少し細やかに振り返ってみると、『孝太郎』の3年余りの歴史は、さらに幾つかの時期に区切って考えることができると思う。
ここで私は、『孝太郎』の半生を、黎明期・発展期・爛熟期・転換期・安定期・停滞期・衰退期の7つの期間に分割する。そして、それぞれの期間にどのような動きや変化があったのかを思い出し、現在へとつながる流れを確認したいと思う。
〈黎明期〉は、創刊号と第2号が発刊された時期である。これら2つの号の編集は、実は私の手によって行われた。自宅にパソコンを持っていたので、編集長が編集作業を私に任せてくれたのである。
編集長から身近な友人にメールが配信され、『孝太郎』の存在が宣伝されるとともに、各種原稿の募集がなされた。幾人かが、この得体の知れない企画に心やさしくも応じてくれ、短歌が数首送られてきた。このおかげで、「孝太郎短歌賞」のコーナーは創刊号から存在することができたのである。
寄せられた原稿は、私のもとに集められ、私は人生初の「編集作業」を行うことになった。パソコン音痴の私であったが、ワードの段組み機能などを駆使しながら、夜が更けるまで画面と格闘した。編集とは、単に原稿を並べて済むものではない。字がつまりすぎているのも困る。逆に不自然な余白があっても困る。コーナーごとのレイアウトが見にくくても困る。編集作業にかかわる様々な困難を私は身をもって知ることになった。
紆余曲折を経て、私の手によってなんとか1号2号が世に出る運びとなったが、私はやはり器量不足であった。第3号からは、編集長が自ら編集作業を行うことになった。ここからが『孝太郎』の〈発展期〉である。タイトルの強調や段組みの操作など、編集長の編集センスは私のそれを遥かに凌駕し、以後『孝太郎』の誌面スタイルが変わることはなかった。第3号からは内容面でも充実し、本格的な文芸誌の様相を呈するようになった。「伴文庫」「意訳いい訳」など、編集長発案の多彩なコーナーが設けられ、反響を呼んだ。コーナーとは別に、小説や詩、評論等の投稿作品の数も増えた。その一方で、「孝太郎短歌賞」への投稿が減少し始め、今思えばそれは、〈終わりの始まり〉がそれとなく示唆されていた現象だったかもしれない。
〈発展期〉は2006年の前半とちょうど重なる。ある程度の浮き沈みはあったにせよ、この半年間で我々は『孝太郎』の〈市場〉とも呼ぶべきものを開拓することに成功した。「『孝太郎』の新しい号が出た」と言うと「読みたいからちょうだい」という反応が返ってくるようになったのである。これは我々にとって至上の喜びであった。我々によって、あるいは我々の仲間によって綴られた文章が我々によって編まれ、それが我々の仲間によって読まれている。そういうシステムを達成したことに、私は衝撃にも似た感動を覚えたし、編集長もまたそうであったろう。
『孝太郎』第6号には、私の稚拙な小説「桶狭間」が掲載された。今読み返してみると恥ずかしいばかりであるが、当時はそれなりに好評であったと伝え聞く。『孝太郎』に載るものとしては少し長めの小説であったので、第6号の誌面の4分の3弱をこの「桶狭間」が占めることとなった。そして第6号には、外部からの投稿作品が一つも掲載されなかった。『孝太郎』は運命の狭間をさまよいだしたのである。
この消えかけた灯を復活させようと、「誌面文化祭」が計画され、実行に移された。この過程が〈爛熟期〉すなわち第7号および第8号である。この時期は「この話のつづきをつくってみよう!」と題された企画が『孝太郎』に活気を与えた。これまでの数々の企画同様に編集長の発案であり、〈お題〉である短い文章に続くようなストーリーを読者から募集する、というものであった。募集自体は第6号でかけられており、多数の投稿が得られたため、第7号はそれらの投稿作品と「孝太郎短歌賞」の拾遺編、および「誌面文化祭」の予告のみで構成された。
そして第8号。『孝太郎』史上最大の10ページからなる厚みのある冊子が世に出ることとなった。2006年11月11日――『孝太郎』の誕生からちょうど一年の記念すべき日であった。評論・小説・詩・短歌の他に、「この話のつづきをつくってみよう!」の企画に対して活発な反応があり、実に4ページ余りを同企画が占めていた。作品発表の場であると同時にことばによる交流の場でもありたい。そうした理念のもと、ときに活発にときに細々と続いてきた『孝太郎』の営みは、ここに集大成を見た。そして第8号は、ある一点がいつもと大きく違っていた。毎回裏表紙に掲載されていた短い言葉と、発行年月日等を記載した奥付がなかったのである。『孝太郎』の活動は、第8号をもって当分の間休止される。真っ白な裏表紙はそのことを密かに暗示していたのだ。
気がつけば秋も深まっていた。我々は受験生であった。我々はしばし、勉強漬けの世界へと身を移すこととなった。
3月。受験結果は悲喜こもごもであった。編集長は合格。私は不合格となり、一年間の浪人を決意した。大学という学府の一員となれた者となれなかった者。その間にはある意味では圧倒的な格差が生じた。しかしその格差は『孝太郎』復活計画に関しては、まったく障害とはならなかった。できるだけ早く『孝太郎』の活動を再開し、積極的に参加しよう。私は端からそう思っていた。
『孝太郎』の編集委員は、あるいは大学の新入生として、あるいは不機嫌な予備校生として、それぞれのスタートダッシュを切り、忙しい春を駆け抜けた。その間〈孝太郎〉は静かに待っていた。不安はあったに違いない。我々にも不安はあった。思い入れは強かったものの、それぞれの新生活があまりにもめまぐるしく、『孝太郎』の今後について話し合ったり、誌面を構成する原稿を執筆したりする時間がとれないのが実情であった。
しかし、春すぎて夏が来たとき、編集長は動いた。7月下旬、編集長自宅にて『孝太郎』の編集会議が開かれた。そして文芸誌『孝太郎』はここから〈転換期〉に入る。編集会議で決定されたことは、一言で言えば〈オンライン化計画〉である。ウェブ上に『孝太郎』のホームページを立ち上げ、第9号以降の誌面はそこで公開する。第8号までの紙面版『孝太郎』のファイルもダウンロード可能な状態に置き、新たに読者となった人にもこれまでの経緯がわかるようにする。さらに、だれでも作品が投稿できるよう、メールのフォームも用意し、幅広く作品を募る。そうした詳細が決められていった。
そして、最大の変革点がブログ「デイリー孝太郎」の創設であった。4人の編集委員に3人の仲間を加えた7人のメンバーが代わる代わる、日々の生活で考えたこと、感動したことなどを800字程度で書き綴ってゆく。ルールはただそれだけであった。「天声人語みたいになればいいね。」そういう声が誰からともなく出たが、具体的にどういったコンセプトなのか、誰から誰へ伝えることばなのか、そして何よりも何のためにそれを書くのか、そういったことは全く決まっていなかった。
2007年8月11日、オンライン版『孝太郎』が誕生した。ページ上には、「再開にあたって」と題された編集長の名の入った文章が第9号として掲載されるとともに、「デイリー孝太郎」にリンクが張られ、記事の連載が開始された。
9月には待望の第10号がウェブ上で公開された。それは『孝太郎』の完全復活を告げているように思われた。そしてそれと並行して「デイリー」の連載も順調に進んだ。私に関して言えば、インプットばかりが続く浪人生活の中で、「デイリー孝太郎」の記事を週に一回書くことは貴重なアウトプットの機会であった。淡白な生活にリズム感を生み出してくれる仕事であった。ただ一点、何を誰に伝えたいのかが自分でも全く分からなかった。私は、書いて、それで終わり、という営みを2ヶ月間繰り返した。最もありきたりな意味で、楽しかった。
7人のメンバーの中には、私を含めて浪人生が3人いた。年度が後期の半ばに差し掛かると、3人はそれぞれ、10月いっぱいで「デイリー」の執筆を休み、受験に備えることを決めた。編集長の人選により、離脱した3人の代わりに新しいメンバーが入り、「デイリー」の連載は滞りなく続いた。しかし雑誌本体の公開は第10号以来行われることがなく、『孝太郎』の主な活動は「デイリー」の連載へと絞られていった。下降線をたどりながらも我らが『孝太郎』は〈安定期〉を迎えた。
そして翌年、2008年4月。前年11月より離脱していた3人のメンバーは、無事大学合格を果たした。私もこれ以上ないというくらいうれしかった。好きなことを好きなだけ学べる場にようやく到達し、感慨無量だった。『孝太郎』にもたくさん作品を送れるし、「デイリー孝太郎」の連載も思い切りできる。入学当初は実際そういうつもりだった。
しかしなってみると大学生も相当忙しいもので、特に前期の慣れない間は語学の予習や各種レポートに追われ気味の生活となった。「デイリー」の執筆もなんとかこなしていたが、満足できる文章を載せたことは一度たりともなかった。他のメンバーにとっても、おそらく「デイリー」執筆は〈義務〉として重く感ぜられたことだろう。『孝太郎』の構成員が全員大学生になったものの、その勢いが盛り返されることはなく、〈停滞期〉と呼ぶにふさわしい空気が『孝太郎』全体を覆った。
そして、2008年10月以降、「デイリー孝太郎」の執筆メンバーが、一抜けた、二抜けたと次々に離脱していった。編集長が自らカバーするなど必死に連載継続が図られたが、ブログのカレンダーは徐々に穴だらけになっていった。今、『孝太郎』は〈衰退期〉にあると言わざるを得ない。
現状については次章に譲るが、私は離脱していったメンバーを責めるのは筋違いだと思っている。反省すべき点は、『孝太郎』を創り上げてきた我々と、つくり上げられてきた『孝太郎』という制度そのものの中にあるのではないだろうか。衰退を招いた原因を丁寧に考えることが、『孝太郎』真の復活の鍵を握ることになろう。
春休みになりました。夏休みに続いて驚くほど長い休みが再びやって来たのですが、無計画に過ごしてしまうと、無駄に長い休みが再びやって来ることとなってしまうので何かやることはないかと思案に暮れています。
そんな私に周りの人々はしきりに旅行に行け行けと勧めてくるのですが、自分で特に行きたいところがあるわけでもないのでそうした声には困惑しています。
確かに社会人ともなればなかなか旅行に行くことはできないし、行けたとしても色々余裕のないものになりそうだから、学生のうちに行っておけというのは理解できるのです。
しかし自分で行きたいとも思わないのに旅行しろと言われて行ったとしても、まず何処に行くか定まらず、そして何をするか定まらず、最後に何をして来たのか記憶も定まらず、結局時間とお金をボランティアするようなものとなってしまうだけです。旅行を充実させるならそれなりの下準備が必要で、準備にはそれなりのモチベーションが必要です。それがない人間には良い旅行はできません。したがって私はできないのです。
なぜ自分がモチベーションを持てないのだろうか。旅行に魅力を感じないのは何故なのか。
旅行の楽しみとは大きく分けて二つあると思います。それは観光と非日常です。観光は行く先々独特の物珍しいものなどを見てまわる楽しみ。非日常は普段の生活、人間関係から離れ、自分をじっくり見つめ直す楽しみ。という感じでしょうか。
まず観光ですが、今自分の求めているものと今一つ一致しないのでなし。そして非日常ですが、普段から一人の時間はわりと多くあれこれ考えてしまうものなのに、わざわざ遠くまで行っていつも通りに悩むのも気が進まない。
…と、旅行に惹き付けられるものがあまりない状況なのです。だからきっと春休みも籠りがちな休みとなるのでしょう。
最後に一つ。旅行には行きたくないというのはあくまで一人での場合です。二人ならば話は別です。三人ならばまた別です。四人ならば多分行きません。以上です。
斉藤美奈子氏の発言が結構前から好き,好きってのも変ですが,何かしらしっくりくるものが多いです。斉藤氏は朝日新聞の文芸時評を担当されていて,フェニミズムから多くの社会分析で発言を行っておられます。
その斉藤氏の示す「それってどうなの主義」というものがありまして,最近は筆者もかなり共鳴しております。主義者の連盟もあります。「それってどうなの主義者連盟」。略して「そ連」。いや,氏の命名ですよ。ほんとに。
「それってどうなの主義」とは何か。以下引用は白水社「それってどうなの主義」より。「何か変だなあと思ったときにとりあえず,『それってどうなの』とつぶやいてみる。ただそれだけの主義」だそうです。そしてそれらの意義は,以下引用。
一、「それってどうなの」は違和感の表明である。
世間に流通している常識、言葉、流行、情報、報道などに違和感を感じたときには「それってどうなの」と口に出して言ってみる。その違和感は、たとえ小さくても長く心に保存・蓄積され、世の中を冷静に見る癖をつけてくれるでしょう。
一、「それってどうなの」は頭を冷やす氷嚢である。
人生の中で重要な決定を下すとき、大きな波に呑まれそうになったときには「これってどうなの」と自問する。それは頭の熱を下げ、自分を取り戻す時間を与えてくれるでしょう。
一、「それってどうなの」は暴走を止めるブレーキである。
だれかが不当な扱いを受けていると感じたとき、周囲でよからぬことが進行していると感じたときには「それってどうなの」と水を差す。相手がふと立ち止まるキッカケになるかもしれません。
一、「それってどうなの」は引き返す勇気である。
会議の席で寄り合いの場で、あれよあれよと物事が決まっていくことに抵抗を感じたら、手をあげて「それってどうなんでしょうか」と発言する。意外な賛同者が現れ、流れが変わるかもしれません。
「それってどうなの主義」とはすなわち、違和感を違和感のまま呑み込まず、外に向かって内に向かって表明する主義。言い出しにくい雰囲気に風穴を開け、小さな変革を期待する主義のことなのです。「それってどうなの」に大声は似合いません。小さな声でぼそぼそと、が効果的。ではみなさん、小さな声で唱和してみましょう。それってどうなの?
引用終わり。
空気を読むことをまず求められるガラスの関係の場所ほど,この「それってどうなの主義」は効力を増すように感じます。小さな声で「王様は裸だ」と主張するわけです。面と向かって戦うばかりの体育会系批判だけでは相手も堂々と的を狙ってきますよね。ぼそっと言われた一言だと,相手はこちらを攻める前に一旦自分を省みないでいられないはずです。相手に知性と良心があれば,ですが。
で,いろいろ見て,社会問題だけでないことまでやってみると,案外言える言える。なかなか世の中裸身の王が多いものです。あくまで細々と,でも目線だけはしっかり持って,「それってどうなの」と言い続けたいと思うわけです。〈弐〉『孝太郎』の性格
文芸雑誌『孝太郎』の創刊号(2005年11月11日発刊)は、B4の紙1枚を2つ折りにしたシンプルな体裁であった。表紙には編集委員の手になる流麗な筆文字が躍り、自らの名を誇らかに告げていた。
その巻頭に掲げられた「創刊にあたって」をここで再読してみよう。
今、あなたが目にしている、この誌面、この紙こそが「孝太郎」というもので、既にお気付きの通り、これは雑誌である。すなわち、文章が載っている。つまりこれをつくった人物がいる。複数の人がこれを目的として書いた文章なり何なりが、このようにまとめられ、孝太郎という名を負っている。それがこれである。
えらくぶっきらぼうな書き出しに見えるが、実は、文芸誌『孝太郎』とは何であるかということは、この文章の中で語り尽くされている。
とりわけ重要な点の第一は、「複数の人がこれを目的として書いた文章」という部分である。『孝太郎』は、「『孝太郎』のために書かれた文章」を期待していたのだ。別の言い方をするなら、『孝太郎』は、編集委員や読者がもつ潜在的な創作意欲をかき立たせる、という役割を担おうとしていたのである。すなわち、『孝太郎』は、表現の原因であると同時に表現の目的としてあった。
さらに重要なもう一点は、「孝太郎という名を負っている」という部分である。〈孝太郎〉という箇所を、例えば〈そよかぜ〉に置き換えてみれば、この部分の重要性が明確になる。〈そよかぜ〉のようにありきたりな誌名ならば字面以上の意味をもたないはずのこの一文が、〈孝太郎〉という人名を含むことで特殊なメッセージ性を帯びている。それは嬰児に対する名付け、それも襲名じみた名付けを連想させる。徳川初代将軍家康の幼名は「竹千代」であったが、2代秀忠、3代家光の幼名もまた「竹千代」であった。この場合、家康は単に「竹千代」と〈名付けられた〉だけだが、あとの2人は「竹千代」という〈名を負わされた〉と言えるだろう。偉大であらせられた家康公の御幼名に傷をつけぬよう、しっかりお育て申し上げなければならない。〈名を負う〉とはそういうことであろう。〈孝太郎〉の名に恥じぬような立派な人格に育て上げる。それが、我々が『孝太郎』に対して当初から求められていたことなのである。
ところが、幸か不幸か、〈孝太郎〉が目指すべき人格がいったいどのようなものなのかは、一切示されていない。うまくいけば読者と編集委員の間に自然発生的な合意がなされ、彼はすくすく育つであろう。しかし、関係者の間に少しでも齟齬が生じれば、彼の人格はたちまち分裂の危機に瀕する。そして、可能性的には後者の方がはるかに高いことは容易に予測できるのである。それでもなお、不断の努力によって障害を乗り越え、質の高い文芸の世界を創り上げるように。それが『孝太郎』が我々に対して、当初から要請していたことなのである。
この暗示に富んだ書き出しの後、―「少し“まともらしい”『創刊にあたって』」にしてみようと思う。―という表明が続き、今までの文章がまともではなかったかのような印象を読者に与える。しかし、すでに述べたように、『孝太郎』の真髄は最初の5文の中に書き尽くされており、この後の文章はその補足と一般的なメッセージに過ぎない。ただし、かなり重要な項目を含んでいるので、読み直してみることにする。
さて、これは雑誌ということですから、文章で何かが表現されていたりする訳です。当然、それを読む人がいる事を望みます(できればたくさん)。読んだ人は書かれているものに対して何か思ったり考えたりする事でしょう。別に、それを書けという訳ではありません。誰かが何かを書いて、他の誰かがそれを読んで、その誰かが“何か”をするのです。それは文章を書いてよこすのでも構わないし、一人で何か考えるのもよい。ただ、そうして何かを伝える場というものを、この紙切れによってつくることができたら、それはうれしく楽しいものではないでしょうか。
要するに、双方向の雑誌にしたいという意欲表明である。そしてこの個所は、文章(ことば)が人を動かすという基本原理を丁寧にとらえている。誰かがある記事を読んで、「文章を書いてよこす」場合は手が動き、「一人で何か考える」場合は心(頭)が動くことになる。人に何かをさせるエネルギーをことばは持っているはずであり、『孝太郎』は、そうしたエネルギーを持つ文章の媒体になりたいと欲している。
この雑誌に何かを載せるのには、特に資格は必要ないし、ジャンルといったものも問いません。よくできたものでなくとも構いません。自分の世界をそのまま表したらよい訳です。(ただそれは難しい事ではないかとは思いますが)。又、「個性を発揮しなければならない」という事に縛られてもなりません。
ここで『孝太郎』は、門をめいっぱい広げることを宣言した。かのように見えるが、実は高質な投稿作品に期待しており、それなりの覚悟で書いてくれというメッセージとも読み取れる。それと同時に、『孝太郎』の強い覚悟も感じられる。それぞれの投稿者が「自分の世界」をぶつけてきたとき、それをひるまず受けとめる覚悟である。たとえそれが『孝太郎』の人格的危機を引き起こすことになろうとも。
ただひとつ、これが「伝える場」である限り、謙虚な姿勢というものはある程度必要です。つまり他とのつながりを意識する。一方向は避けたいところです。この事で、私達にとって何か良い事がもたらされる事が期待できると思います。
そしてさらにハードルが上げられる。自分の世界を展開し、自分の意見を主張しながら「謙虚な姿勢」を保つというのは何とも難しいことである。しかし、およそ言葉を紡ぐ者は、確かにその努力をせねばならない。情報伝達をめぐる様々な軋轢は、すべてと言ってよいほど謙虚さの欠如から生じるものだからである。
書くということ、読むということ、ことばで伝えるということに対して、『孝太郎』は非常に高い意識を持ち、バランスのとれた理想を掲げている。そしてそれらの信念が、肩の力の抜けた平易な言葉で綴られており、「高い理想は高い敷居にもなる」というありがちな弊害も見事にクリアしている。
もし、この雑誌によって、誰かの中で新しい何かがうまれたり、誰かの可能性というものが広がったり、少なくとも、楽しいとか面白いとか思う人がいてくれたなら、この雑誌の目的は達成されていると言えるでしょう。
『孝太郎』の最終目的を述べたこの部分は、もはや達観的とさえ言えるだろう。結局は楽しければよい、面白ければよいのである。そしてもちろん、ここで使われる「楽しい」「面白い」という言葉は、これまでの記述によって既に浄化され、日常的な用法とは乖離している。読者が『孝太郎』とともに享受すべき〈楽しみ〉の境地を提示したうえで、「創刊にあたって」は以下のようには閉じられている。
孝太郎を―こいつはある意味多重人格かもしれませんが―よろしくお願いします。
全体を軽く読み流してしまったならば、この一文は大したインパクトを持たない。しかし、文章冒頭を深く読むことに成功すれば、この箇所が単なる擬人法ではないことが重みをもって感じられるであろう。〈孝太郎〉は「こいつ」と呼ばれる他になく、確かに「多重人格」なのである。
しかしいったいどれだけの人間が、〈孝太郎〉のこの摩訶不思議な性格に思いを至らせたであろうか。「作品放出の場」として軽くとらえてはいなかったか。文芸誌『孝太郎』をめぐってなんらかの不都合な問題が生じるとすれば、それはおそらく、〈孝太郎〉の性格を無視した言動に起因するものである。〈孝太郎〉の生を狂わせる方向性に加担しなかったかどうか、我々は自省してみなければならない。私自身も、反省の念を深く抱いている。
(革島秋遷)
どうして講義の中で気付くことができなかったのか?と前々から疑問に思っていましたが、先日ネット上の記事で漫画を単行本あるいは雑誌で読む場合の味わいの違いについて考えているものを読み、ちょっと答えが見つかった気がしました。
その記事では、雑誌で読むとイマイチなのに単行本で続けて読むと面白い漫画というのがあるが、それは各話ごとの関連性が他の漫画よりずっと強く、前の内容がしっかり頭に残っていればいるほど理解が深まり本当の面白さが分かるからだ、と述べられていました。なるほど確かに物語が複雑な構成になっているほど、全体が把握できているとその出来映えに感動するものです。
そして講義の内容もまた物語であるのだと考えれば先の話はよく当てはまります。特に大学で扱う学問などというのは複雑極まりないものばかりで、一部だけ切り抜いても飛躍のし過ぎでとても理解も納得もできない。けれども必ず内容は関連性をもって展開されているわけで、それを最初から見通すことができるならよくよくまとまった形のものになっていることが分かるのです。試験前に短期間で通して内容を振り返るのはそれと同じことをたまたまやっていたということなのでしょう。
内容がちゃんと関連している以上、どの回の講義も過程として重要なことを伝えてくれているはずなのですが、私はそれを重要と認識できないから面白いと思えない。こういう鈍感さが自分は学問に向いてないなと思う原因だったりするわけです。
だるまさんがころんだ
交差点では
一瞬も絶えず通り過ぎゆく
それを背に私は歩く
疲れた時
呪文をつぶやいて
振りかえってみると
あの日の姿でみんな
ぴたりと止まっている
みんな笑って
オニのほうへと来ようとしている
動いた人がいたら
言ってやろうとしているのに
ぴたりと止まっている
声をかける余地が無い
再び前を向いた
交差点では
一瞬も絶えず通り過ぎゆく
ネックウォーマーなるものを、最近寒いので愛用している。輪っか状になっていて頭からすっぽりとかぶるだけで手軽にあったかい。暑くなれば外してコンパクトに持ち歩けるという点でマフラーよりも機能性が高い。そんな便利なネックウォーマーだが、ファッション的な観点ではマフラーに若干ひけをとり、「鞭打ちか」などと揶揄されること頻りである。
マフラーが何ぼのもんじゃいと多少ムキになって、ウィキペディアを調べたりすると、日本でのマフラーの歴史は意外と古く、江戸時代に遡るらしい。往時にはマフラーは隠居がするもので若者が装着すると病人だと思われたらしい。江戸時代の若者に共感した私は、マフラーだろうがネックウォーマーだろうが、首が暖かいのは幸せだね、という気分になっていた。
ところで、ウィキペディアによればファッションとしてのマフラーが流行ったのは2004年以降のことらしい。首を飾るという感覚はむしろ異端なのかもしれない。アニメの首が折れそうなぐらいに細く描かれるのは、ある意味首の理想像であろう。頭部の胴体からの断絶を示すため、首は出来るだけシンプルに目立たないようにしておいたほうが美しいということである。
そう考えるともっとも美しいのは、私が持っているような目立たない単色のネックウォーマーということにはならないだろうか!?