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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 年の初めというのは大体、その年号に馴染めない歯痒さを感じるものであります。しかし今年はその感が特に強いように思うのは私だけでしょうかーー2008年?なんか変な感じ。
 困ったときの素因数分解、なんて誰も言ってはいませんが、私は素因数分解が好きなのでやってみましょう。

2008=2*1004
2で割ることができました。一番小さい素数で割れる。複雑化した社会の魑魅魍魎が、今年はなんだかちょっとだけ分かり易く見えてくる一年になるんじゃないか。そんな期待を抱かされます。

2008=2^2*502
さらに2で割れます。オリンピックイヤーですね。今年は北京です。経済的・社会的側面が前景化しまくってスポーツどころじゃなく思えることもありますが、ちょっと夜中にBSを付けるとすごくマイナーなスポーツをやっていたりして、結構私は好きです。オリンピック。

2008=2^3*251
またしても2で割れます。ちょっとしつこい。しかも251は素数です。手詰まりです。何だか純粋培養で融通の利かない感じ。僕が2008年に抱く違和感の原因はここいらへんにどうもあるような気がします。

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作者名も題名もよく知られている有名な文学作品でも、実際に読んだことはなく、内容はよくわからない、ということはないだろうか。私にとって、そういった作品はいくつもあり、一度読んで見たいという気持ちもあったので、少し空いた時間などに、青空文庫を利用して作品を読んでいる。

青空文庫とは、著作権の消滅した作品と「自由に読んでもらって構わない」とされる作品を、無料で読むことのできるインターネット図書館のことだ。作品数はどうしても限られてしまうが、同じく無料で利用できる実際の図書館とは違って、わざわざ借りに行ったり返却しに行ったりする必要がないので、忙しくて時間がないときには、非常に楽である。また、青空文庫で作品が電子化されたことで、携帯電話を利用して作品を読めるサイトなどもできており、携帯電話を持っているだけで、いくつもの文庫本を持ち歩いているのと同じことになる。よって、鞄の中でも大して場所はとらないし、その場の気分で作品を選べるのも、なんだか嬉しい。

最近はパソコンではなく、主に携帯電話を利用して電車の中で作品を読むようになった。ついこの間も、ある作品を読み終わったところで、確かに作品の内容を楽しむことはできたのだが、読書後にいつも感じる、「読み終わった」という一種の爽快感のようなものがなく、なんだか物足りない気分になった。何故なのか、そのときはよくわからなかったが、今考えてみると、自分は、作品を読んではいても、「本」を読んでいるわけではなかったからではないかと思う。

実際に本を手にして、読んでいるときは、読み進めると同時に一枚一枚ページをめくる。本を閉じたとき、最初はしおりを挟んでいる部分までのページは少なく、薄っぺらいが、読み進めていくうちにその部分はどんどん分厚くなっていき、逆にしおりを挟んでいる部分以降が薄くなっていく。そうやって、視覚や触覚からも一冊の本がもうすぐ終わりを迎えることを感じることで、作品の結末に向かって高揚する気分が、より一層強くなるのだ。携帯電話でも読み進めると同時にページを送っていくわけだが、本と違い、自分が今その本をどこまで読んでいるかはわからず、作品の内容からなんとなく感じ取るだけだ。実際に「本」を読んでいるときよりも気分が高まらないのである。この気分の高揚の差が、読後の爽快感にも違いを生んでいるのではないだろうか。

私は、読書をするとき、ただ作品そのものだけを楽しんでいるのではなく、「本」を読むという作業も含めて作品を楽しんでいるのだと初めて気づいた。これからも青空文庫を通して作品を読んでいくつもりだが、気に入った作品があれば、実際に文庫本を買ってもう一度読んでみようかな、とも思う。

1/9

小林秀雄の講演が収められたCDをきいた。

とても面白く、これはすごい人だ、なんて思ったが、しかし「さすが小林」という感じとは少し違った、というのも、「無常といふこと」などの著作から想像されるイメージとは異なっていたからだ。

そういえば坂口安吾の文章に、小林秀雄をボロカスに言っているものがあったけど、自分にそんなことできるわけもなく、「歴史というのは、思い出すことなんです」と語る場面など、妙に感心したりした。

で、CDの中には「文章について」という題がつけられた話があって、私もこうして毎週文を書いている身だから、どんなことを言うのかと興味を持ってきいたのだが、まず最初っから、文を飾ったって文は生きないんです、とか、文は率直に書くべきなんです、とかいうのからはじまって、古事記の話がでてきたりいろいろ続いて、これをきいてすっかりまいってしまった。私、文飾ろうとしてるし。率直になれないし。

こんなわけで、今回原稿を書くのに困ってしまって、結局時間がせまってきてあわててこんなものを書いた次第である。

小林秀雄のCDは私はおすすめできると思う。興味があればきいてみてほしい。

1/8

ベートーベンといえば、いわゆる「運命」とかエリーゼのためにとか、「第九」とかを作曲した人だ、と多くの人が思うだろう。また、世界史を勉強していれば、ナポレオンと交響曲第3番のエピソードを知っているという人もいると思う。

別にあげられる彼の特徴といえばやはり難聴であろう。これは作曲家として致命的とさえいえるばかりでなく、自分の作った曲を自分で聞くことができない悲しみを伴っていたに違いないと思われる。

その難聴がファクターになっていたかどうかはわからないが、ベートーベンは非常に厳格な人だというイメージが強い。彼の曲は推敲に推敲を重ねてできたものであるらしい。ひとつとして書き直した箇所が見られないモーツアルトのものとは対照的に、ベートーベンは一旦書いたものをぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまったり紙を破り捨ててしまったりといったことがあったとどこかで読んだ。

さてそんなベートーベンだが、音楽をきいてみると、なんというか優しさとか温かさのようなものを感じる。先日「のだめカンタービレ」というテレビドラマ(もとは漫画だが)が放映されていたが、それのオープニングテーマにベートーベンの交響曲第7番の第1楽章の一部が使われていた。「苦悩を突き抜けて歓喜へ」といった言葉は置いておくとしても、特にこの曲の明るさ、楽しさに触れて、ベートーベンをただの頑固者の難しい怖いやつと思うことはないだろう。(実はこの曲は第2楽章が特に人気があるがこれは短調である)

ところで、いつか「第九」を聞いていて思ったことだが、この曲中、よく見ていると、オーケストラのすべての楽器にスポットライトが当たるようになっている。胸のときめくような事実である。

こんなベートーベンを、是非みんなにも聞いてほしいと思うのだ。

1/7
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年はたくさんデコメールでお年賀の挨拶がやってきました。私はデコメにはデコメで、年賀状には年賀状でお返ししております。プラマイ0ってやつです。
みなさん新年のご挨拶はどうなされましたか?


今、抑うつに関するレポートを書いております。
健常者は現実をリアルにとらえていて、抑うつの人は現実をネガティブにとらえているという認識があると思います。
しかし、抑うつリアリズムという考え方では、抑うつの人が現実をとてもリアルにとらえていて、逆に健常者が物事をリアルにとらえず、楽天的にとらえているということが言われています。
抑うつに関してまだまだ知識があさいのにも関わらず、このような公な場でサラリとほんの触りのみ書いてしまって申し訳ありません。
何が言いたいかというと、抑うつの人の現実のとらえ方を、ネガティブにとらえているから、そのままリアルにとらえている、という側面に視点を移動させたということです。
当たり前を当たり前でないものと考えること。視点を変えていくこと。
前回の月曜日の文章と似通っていますが、固定観念にとらわれていてはなかなか前には進めませんよね。
客観視とはまた違った視点です。昨年は教えられる側から教える側に立つようになって、新たな発見がたくさんありました。今年もまた新たな発見がたくさんありますように。
1/6

 私の冬休みは今日で終わりである。1月下旬には試験があるので、その勉強やら、山積した課題を片付けるやらで、高校時代よりもがんばっていた気がする。

 その課題(期末レポートという)のうちのひとつ、英語の課題をやろうとしたとき、高一のときに研修旅行でニュージーランドへ行ったのを思い出した。というのも、その課題が、英語の広告を選んでそれについて特徴を述べ、消費者への効果を分析し…というものであったからだ。私はニュージーランドから新聞を(結構たくさん)持ち帰っていたので、それが使えるな、とピンときたわけである。

 しかし、ガサゴソとその新聞を探したが、出てきたのは一部だけだった。向こうにいるときは、新聞からその土地の文化がわかりそうだ、というか単純に面白そうだ、と思って友達に頼んでまでして新聞を手にいれカバンにいれたのだが、帰ってくるともうそれは邪魔でしかなくなってしまって、そして大部分は捨ててしまったのだろう(何でも取って置きたがる自分の性格のおかげで一部でも残っていて、助かった)。本当に、何があるかわからないものである。

 ところで、新聞を探したということはすなわち上の研修旅行関連のモノをたくさん目にしたということだが、そうなると、ノスタルジーのような、切ない感情が湧きあがってくる。いつもならそのモノをじっくり眺め始めて、探し物はどこへやらで、だんだん無気力になってきたりするのだが、今日はふと、こういうときにでてくる感情というのは、劣等感のようなものと言える場合があるなと思った。(そしてレポートも書かなくちゃならなかったので急いで探しものに戻った)。

 過去(の自分?)に対する劣等感。これは、今の自分と昔の自分を重ね合わせてしまうことから生じる。重ね合わせるというのは単に今の自分が昔の自分を見て比べるというのでなくて、今の自分が昔の自分に入り込んで、それを見ている感じ。「できること」はおそらく現在の方が多い。それなのに、それだから、過去に劣等感を抱く。上の新聞の例でいえば、私はいまそれを有効に使うことが「できる」ために、捨ててしまったことに対してどうしようもない気持ちになるのと似ているだろうか。知識のみならず情感も豊かになってからその「過去」を見ると、当時とは違った景色が私の前に広がって、あの感情を引き起こすのだ。単に、「楽しかったあのとき」を見て、懐かしいなぁと思うのとは違って(そういう場合もあるけど。というか過去には今の自分が絶対影響していると言っていいと思うので、これは程度の問題かもしれない)、「あのときは楽しかったなぁ」なのだ。(感覚的すぎる表現で自分でもよくわからないが)。

 

 新年早々自分でも意味のわからない文をだらだら書いてしまった。これも正月ボケの一種ということで許してもらいたい。

1/5
 残った餅の保存にそろそろ気を遣い出すこの頃。明けましておめでとうございます。本年も土曜日のアホをよろしくお願い致します。


初詣

煌々と揺れる燈
正殿のたたずまい
その前に雑然と二列
白く浮かぶ息
はしゃぎ出す幼子
顔を合わせたご近所さん
冷えた鐘の晴れ舞台
御籤の一喜一憂

その上には冴え渡る星空
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