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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 「自分が受けた教育の背景をずっと背負っていることを自覚しないといけない」と、教育学系の先生が講義の中で話したことがあります。どういうことかといいますと、盛んに言われる「子どもの問題」…虐め、学力低下、生活習慣など、世論一般で言われることだけでもキリがないですが、そう捉えている側、例えば我々ならどういう教育を受けてきたか。学級崩壊、当時で言う「登校拒否」など、それはそれで充分「荒れた」ものだった九十年代に児童時代を過ごしてきているではないか、ということです。ミクロに見れば個々で多種多様なバックグラウンドがあるでしょうが、マクロに見れば「そういう世代」です。また、もう一つ別の見方をしますと、競争競争と説く親世代(今の小学生くらいを長子にもつくらいの)はどういうバックがあるでしょうか。高度経済成長時代、受験が戦争化して少し後の時代とでもいいますか、その中で育った人々が今教育を提供する側になっています。そう考えると、もはや子どもに問題は還元しえません。筆者の好きな五味太郎さんの『大人問題』の決定的一文「結局、大人が問題なんですよね」を思い出します。言ってる筆者はモラトリアムとか言われる時期ですが。微妙ですが。

 

さて、先日、中教審の答申で、学習指導要領の改訂の方針が発表されました。代表的なところは脱ゆとり教育。週1時間の授業数増加、基礎学力の向上をねらう時間割に変える方向が確定のようです。おそらく、将来的に我々の世代は「ゆとり世代」と少なくとも教育界では扱われ続けるであろうことも確定で、方向性の違う学校の下で子を育てることになるのかもしれません。非常に短い間で、反動的とも見える形で終わるゆとり教育は、それでも確実に我々には行われました。これが意味するところは、我々がバックに持つことで示されていくのでしょう。

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 昨日、京都では、今季初でしょうか、結構しっかりと雪が降りました。毎年センター試験の季節に降っているような気がします。受験生にとってみれば本当に迷惑な話ですね。
 さて、普段から折りたたみ傘を持っている私。地下の講義室から出て空より白き花の降れるを見ても動じず怖じず、鞄から傘を取り出し、それを拡げて歩き出します。雪の粒は傘の皮に当たって、雨とは違う、微かな音を立てて融けてゆきます。その音の何と謙虚で、何と日本的なことでしょうか。私はせわしなく歩く人々の群れの中で風流を感じていました。
 国文法の用語に「擬音語」と「擬態語」というのがありますが、「雪がしんしんと降る」と言う場合の「しんしんと」と言うのは一体どちらに分類されるのでしょうか。恐らく擬態語の方でしょう。周りの音を全て消し去って降るような雪の様子を「しんしん」と言ったものだと思います。但し擬態語も発音される以上は音声的なイメージを伴います。謂わば「隠された音」「聞こえない音」を人間の口によって音声化している、といったところでしょうか。私は折りたたみ傘を通して「聞こえない音」を聞いてしまったのではないだろうか、そんな気がしています。

一月は往ぬる、二月は逃げる、三月は去る。

よく耳にする言葉だが、本当にその通りだと思う。正月が明けて、一月になったばかりだと思っていたのに、いつの間にかもう中旬である。普段から、月日の流れの早さを意識することは多いが、一月から三月にかけては、より一層それを感じる気がするから不思議なものだ。

時が過ぎ去っていくのを非常に早く感じる状況というのは、二種類あると思う。

まず一つは、何をするわけでもなく、ぼんやりと毎日を怠惰に過ごした場合。あるとき、ふっと自分が過ごした時間を振り返ってみても、何か出来事や変化があったわけでもないので、あっという間に月日が過ぎてしまったように感じる。この場合は、何もしないまま、こんなに時間が経ってしまったのかと、振り返ってから、焦りや後悔の気持ちが出てくることも多い。

もう一つは、逆にとても充実した日々を送っている場合。やりたいこと、やらなければならないことを一つ一つこなして忙しい毎日を過ごし、いつの間にか月日が経っている。こちらの場合でも、月日が経つうちに、自由に過ごせる時間が残り少なくなったり、やらなければならないことの期限が迫ってきたりして、焦ることはあるものの、怠惰に過ごした場合とは違って、充実感や満足感を得ることができるだろう。

講義があって、テストがあって、春休みを迎えて…。きっと今年も、去年までと同じように、気づけば三月になっているに違いない。けれど、振り返ってみたときに、それまでの日々が空虚なものだと感じないように、充実した日々だったと思えるように、行動していこうと改めて思った。

今春卒業する大学生の就職内定率が4年連続で上昇したそうである。何年かあとに就職をしようと思っている高校生や大学生にとっては良い知らせだ。まだ自分のやりたいことが決められずにいる人にとっても、とりあえずは少し安心させられるデータであろう。
阪神大震災が発生してから、明日で13年になる。建物が倒壊し、火災が起こり、道路が遮断されている、そんな光景がひろがっているのをテレビで見て、おそろしい、いや呆然とした記憶がある。しかし、その記憶もだんだんと薄れつつある。
昨年は能登半島地震に新潟中越沖地震と大地震が続き、多くの人たちが苦しい思いをした。このような出来事が風化していくのを、どうすれば防げるか。われわれの考えるべき問題である。
今春卒業する大学生は、13年前、小学生だった。震災の被害にあい、家が壊れ、親をなくした人もいただろう。まだ小さい頃に、そんな中を生きた人が、その学生達の中にいるのだ、と思うと、その力がもっと映えてほしいと思う。
震災を風化させずに、もっと、いろんな面で安心できる暮らしへ。そういう努力をしていこうではないか。

センター試験直前です。今週末です。

試験を楽しめるかどうか、これは自分がどれだけ「できる」か、ではなく、どれだけ「やってきた」かにかかっている、そう思っています。

見直しに見直しを重ねて、しかし手早く、問題を処理していく、そんな選択肢ゲームのような試験の結果によって、自分の今後が左右される、ということは、否めないのかもしれない。

しかし、それがなんだというのでしょう。

我々は、これから、もっと多くの、もっと高いハードルを越えていくのです。どの道に進んだって、自分で走って、自分でつくった壁をぶっ壊して(あるときは壊せないかもしれない)進むのです。ハードルに終わりはありません。

ぶつかること。これをできる自分になれれば良いのです。

 第26回全国都道府県対抗女子駅伝が今日の午後行われた。はじめはテレビで見ていたが、コースからそう遠くない場所に住んでいるので、せっかくだから見に行こうと外へ出た。
 私の地元京都は2区から1位になり、そこからトップを守って、大会新記録で優勝した。私が見たときは既に2位とだいぶ差をあけていて、兵庫が後を追っていた。 47人通過するのを見、折り返して戻ってきたときもまた見に行った。生でみるとやはり違うものだな、と感じた。
 なにしろ速いので、目の前を通るのはあっという間だ。しかし、その間にも選手たちの息遣いや足音が確かに聞こえる。はたしてちゃんと届いているのかどうかわからないが、沿道の人たちが「京都がんばれよー!」とか「山梨ファイト!」とか言って応援している。その中を颯爽と走っていく姿は、圧倒的であったり、きれいだったり、うれしかったりかなしかったりする。
 走るというのは、手を振り足を動かして前にすすむということだけれど、そのときには、実は選手の内面にあるものが多分に出てきていると思う。これまでの練習とか様々な経験といったことや、自分の意識や想い、あるいは言葉にできない何かがあらわれてきて、見る人に何か伝わってくる。
 ひとりのランナーが走るという行為に、何人の人が関わったか(ある人はコーチをしただろうし、ある人はいろんな面でその人を支えてきたに違いない)、ということを、声援をきいていて、思わずにはいられないし、必死に走っている選手を見ると、襷のいかに重いことだろうとか、都道府県を代表して走る気持ちとはどんなものだろうとか、思ってしまう。
 そのような感情をぬきにしても、実力ある人の体の動きってただならない力があって、見るに堪えるものだ。単純にいってしまえば、とても格好良いのだ。
 正直に言って、数年前まで、スポーツは自分がやってこそ楽しいものだと思っていたが、見てる側にこんな大きな感動をもたらすのかと、生で見るたびに思う。まっすぐ前に向かって走る姿に、いわゆる「現代テキな」嫌な要素はない。

 さて、(蛇足だが)、沿道にいると、係りのおばさんが近寄ってきて、旗を渡してくれた。はじめは気付かなかったが、よく見ると下のほうに「その感動も受信料から」と書いてあった。まぁ、これはこれで重要な問題でありますが。

 “3R”。もう小学校くらいから聞かせられてきたこのフレーズ。3つとも言えますか?たぶん大丈夫ですよね。Reuse Recycle Reduce。循環型社会形成へ、などと謳っていながら、その実現が程遠いと広く指摘されているこれです。

 

 Recycleが、例えば空き缶を集めて洗浄、再製する際にコストがかかることや、大量のエネルギー(主に電気)を使うがゆえに実質そこまでエコなのか?という指摘がなされることは度々。だからと言って空き缶は埋めてしまう、というのでは資源の非効率を生んでしまうわけで。これに限らず、「エコ」とされるものたちがどれ程エコロジーなのか(稀にエコノミーを略している、という詐欺まがいもある)というのは京都議定書などで環境の話題が再び盛り上がる今日考えてみてもいいのではないでしょうか。

 

 そんなことを思うのも、その他2つ、Reduce Reuseについて最近考えるからです。まず前者。よく行くスーパーではレジ袋を20回断ると100円の得をするシステムがあります。これで先日20回に達しまして、軽く得をしました。そういう制度は一種ご褒美がないとやらないのか、というような非難を受けるかもしれませんが、こうでもしなけりゃ断らないのが世の常(何しろこれでも面倒と思う人はいる)。また、もう一軒あるスーパーでは、レジ袋を断るには専用カードを買い物籠に入れるか口で言うかしたらいい、というシステムが前述の所と同じながら、得するシステムはありません。こちらでは、実践者は皆無。あろうことか、専用カードを籠に入れたにもかかわらずレジ担当が無視したこともありました。その他、過剰包装を断ろうにも包装済みのものが並んでいることもありますし、Reduceも楽ではありません。

 

 次いで後者、Reuse。先日筆者は中古自転車を探しまわりまして、電車2駅分を歩いたにもかかわらず、1台も見つかりませんでした。そこでいろいろ調べてみたところ、筆者がいる地域では年間4万台の放置自転車があり、たいていは引き取り手がなく業者に一括売却、それらは中国など他国に回されているそうです。かつ、市民の声から一部を修理して販売しているのですが、1ヶ月に5~6台、それも抽選で当選した市民(住民ではダメ)に購買権を与える、というものです。4万台もありながら中古を取り扱う所がこうも少ないとはどういうことなのだろうか、放置して一定期間経てば公開オークションでもしたら良いんではないか、新品売る店が割合でまだ多すぎるのではないか…考えることは多くなりました。道に長いこと放置してあるのをパクって軽く修理するのが一番丸く収まるのではないかと極論まで考えましたが、案外極論でないかもしれません。犯罪ですが。

 

 大仰な「もったいない」がかえって柔軟性がないんではないか、と思ってしまいました。
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