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思えばこの10年の間に電子辞書が随分と普及した。それどころかいまや携帯電話やウェブ上でも手軽に辞書が引けてしまう。情報化という言葉ともぴったり来る現象であるが、いまや知識は、あらゆるハードに偏在してしまっていて、というかあらゆる場所からアクセス可能なものになってしまっていて、有り難みを失くしたように思うのである。そこへ来て今回の広辞苑改訂。何となく時代感覚から外れていて快いものがある。
紙にチタンを使うことでページ数は五版から増えたものの、本全体は薄くなっている、というエピソードも私の心を刺激した。唯物論ではないが、形而上的知識が物質の基礎の上に立っているという感覚は、どこか我々を安心させるところが無いだろうか。今度本屋に立ち寄った際には是非とも広辞苑を持ち上げてみて、「知識の重み」を実感してみて欲しい。
とはいえ今後新しい電子辞書には勿論第六版の広辞苑が収録されることになるだろう。あまり時代の進歩を嫌ってばかりいるわけにもいかないなとも思う。
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急いでアップしたために明らかな文章のミスがありましたので改訂しました。(2/23 金曜担当者)
梅田望夫氏の「ウェブ進化論」、梅田氏と作家の平野啓一郎の対談「ウェブ人間論」という二つの新書がある。前者の方が先に出ていて、後者はそれをふまえた対談本となっている。
本当の大変化はこれから始まる、という副題のついた梅田氏の本は、ウェブ社会と、それとリアル社会との関係から、ウェブ時代における新現象まで丁寧に説明しながら、変化にどう対処するか、ということが説かれている。
10年以上シリコンバレーに在住している氏の文章は、単にウェブ社会に関する知識を得ようという人にとっても有用であるとともに、これまでの「ウェブ」に対する考え方を改めさせられるような力を持っている。これまで自分がウェブとかインターネットというものにネガティブなイメージを抱いていたのが、まるで幼稚で頑固な(というより無知のための)ものだったと感じられる。
思うに我々はもはやインターネットなしには不便でならない世の中にいる。そして、「ウェブ社会」というものにさまざまものが移行してゆく、というよりむしろそこに新たにいろいろ生じてき、それが我々にとって大きな存在となってくる。「あちら側」に独特な世界の仕組みとはどんなものであるのか?それに対してどう対処すればよいのか?身近であり、自ら“参加する”ものについて氏の視点から見てみるのはなかなか有意義である。
後者の対談本は、平野氏が、梅田氏と、自分の体験や意見を述べ合っている。「進化論」とあわせて読むと面白い。
先週はお休みしてしまってすいません。
冬は寒いんだ、と改めて感じられる日々が続いております。最近は耳が冷えるので、ラビットファーのイヤーマフを愛用しています。体の末端部分をあたためると体全体にもあたたかさを感じることができますよ。
イヤーマフで耳を押さえることによって、外界の音もかなり遮断されます。車の騒音や人混みと自分との隔たりからか、なんだかたった1人でいるような感じを覚えたりするのです。
個人的には1人になりたいと思う時があるので心地の良い時間となっています。しかし、1人になれる時間は寒空の下、誰かに会いに行くほんの2、30分でいいかなと思うのです。一人暮らししたい!と思っても、結局は誰かと自由に会える時間が欲しいだけだったり。
人恋しく感じられる冬の寒さに、人との繋がりをより一層大事にしたいなと思います。一方通行なこの記事も、誰かと繋がっていると嬉しいです。ではみなさんまた来週にでも。
近頃、謝罪会見というやつが非常に多いように思う。テレビでもよくそう言われている。
きくところによれば、謝罪マニュアルなんてものも存在するらしいし、トップにいる人間には「謝罪力」が必要だなどということもきかれる。
数日前、夕方の番組で、何か問題を起こした企業の責任者(と思われる人)が、「謝罪会見」をしている映像をみたのだが、その中で、その人は、「…で、まことに遺憾であるとともに残念で…」といった言葉を発していた。すなわち、「とても残念で、且つ残念である」というわけである。いったいどういうつもりで言ったのだろうか。
遺憾という言葉は、特に政治家の口からきかれることが多いと思う。どこかであった事件について、記者が総理大臣に訊いたときなど。
この言葉は、岩波国語辞典をひくと「思い通りでなく残念なこと」とある。この意味しか私は知らないので、上の会見を見た時も「?」となったのだ。しかし、ある調査によれば、割と多くの人が、「遺憾」を「謝罪」だと思っているらしい。
上の会見での発言者がどういうつもりで言ったかはわからないが、私は謝られたとは感じない。言葉の意味は時とともに変わっていくものであるというのは確かだと思うが、少なくとも、謝罪したいなら、「遺憾」という言葉以外にもっとあると思う。受け取る側としては、基本的には、「遺憾」に誤魔化されないように、と少し思って見るくらいの方が良いかもしれない。
平成始まって20年とよく聞く今年。いろいろと20年前を振り返る映像や文章を見ます。今騒がないと次は10年ありませんから(?)。
こういう時、懐古的な印象が見えます。「ああ、あの頃は」と「あの頃からこんなに変わった」です。前者はよく言われる代りに表面的、後者は批判もある一方内心思う人が多いかなと思います。自分が産まれて以降ただ悪くなったみたいに言うなよ、と思うのはさておき、何れも日進月歩が前提にあって快くありません。
昨日より何で今日は良くないといけないのか、納得出来ない訳で。階段上るように進歩しないといけないのは大変やんなあ、とひねくれて構えると一種楽です。
向上心のない奴と言われそうです。でも明日の自分に保証ができないもので。総じて見て向上してたら上出来だろうなと思ってます。
頑張らない、という感じです。頑張るって言葉も思うところは多いですが、今日はこのあたりで撤収します。
そちこちで言われているところだが、今一度強調しておきたい。今の小学生は「円周率は3である」と教わってはいない。「円周率は3.14」である。これは、現行の学習指導要領を見れば書いてある。「円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。」とある。すなわち、小数点第二位まである掛け算は難しいから、実際に面積を求める問題では3として計算させてよいとするものだ。それぐらいの計算はできて欲しいという向きもあろうが、3.14を習ったうえで3として計算することで近似的な計算の感覚が身に付くと言えるかも知れない(勿論3.14だって近似には違いないが)。良し悪しかとも思う。
今日は短くてすいません。寒いので。
参考:http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/004.htm
会話における言葉というものは不思議なものだと思う。
たとえ一字一句として違わない文だとしても、その言葉に込められた思いによって、自分の中で生じる感覚は異なってしまうのだ。言葉を受けて生じた感覚は、その言葉を発した相手に対する自分の印象や感情に左右されることも多々あるので、非常に不確かなものではある。だが、その相手との関係を構築していく過程で、この感覚を頼りにしている部分は比較的大きいように思う。
言葉遣いというのは、円滑に物事を進めたり、相手と心地よい人間関係を築いたりするために、会話の際には気をつかわれるものだ。しかし、それは、これらが自分の気持ちの持ち様と連動している場合が多いからこそだと思う。言葉の選び方も大事だが、そこに込める自分の思いや感情も大切にしたい。