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癒しを最近でも求める人は多いのでしょうか。癒し系という言葉が人気を博したのは確か8年くらい前のことだったと思うのですが,それ以後これは市民権を得た言葉になっているようで,癒し系とされるもの,風景,人,世の中に大量に出ています。
この「癒し」の動詞形は「癒す」というのが一般の認識でしょうか。癒しを施す,ということで。でも不思議なのは「癒す」という以上誰かが誰かを癒す以外にあり得ないことです。ここで考えて見ましょう。世の中の人間けっこう多数が癒されたいと思っているとしたら(日本では少なくともそうですね),あなたは誰かを癒せるでしょうか。けっこう難しいですよ。何しろたいていの人は風景とぬいぐるみと音楽と人との繋がりと全てを癒しの要素として欲していますから。どのようにしてその人を癒していくのか,ということです。また逆に誰があなたを癒せるのでしょうか。誰があなたを癒せるほど施術の方策に長けた人間なのでしょうか。
みんなが癒されたい。これ考えるとけっこう不気味です。癒すという以上,傷があるわけです。平均よりも傷ついているからそんなことを思うわけです。いや,傷ついていると思っているから癒されたいんです。心が外部から傷を付けられたように思うわけです。みんなが自分が平均より辛いと思ってる。そして癒されたい。誰に。誰にでも。怖っ。
この不気味さから脱出することの一歩となるのは,「癒し」の動詞形には「癒える」もあることを思い返すことでしょうか。これは徹頭徹尾自分です。心が外部からどうこうとかパラドックスに嵌りそうな思考をしなくても,誰か,何か,特殊なものを切望しなくても出来ます。「癒える」には「癒す」っていうほど何か大仰な雰囲気が無くて,適当かつ適切な雰囲気があっていい。ほっときゃ癒える,みたいな。
みんなが何かしら抱えて生きるのは事実とすると,むしろ積極的に「癒える」ことが救いとなるように思います。誰かを待ち続けて,癒されたいと願い続けるより。愛されたい,と言って何もしないのに似てます。癒されたいっていう言い方は積極的に消極的になろうとしています。そんなところ頑張らんでも。ほっといていっぺん癒えてみたらどうや?と大変な時,自分に言い聞かせてみようと(これは私自身が最近痛感することですが)してみるのはどうでしょうか。
「わたし…ずっと前からあなたのことが…!」
はいストップ!私には疑問だったんです。あなたの「こと」とは何なのかと。あなたが好きなのではなく、「あなたのこと」が好きなのです。英語に直すと、I love the things about you.でしょうか。違和感があります。
「こと」は日本語文法で言うところの形式名詞ですから、抽象的で漠然とした内容を指します。それは「あなたの思考」であったり、「あなたの生き方」であったりするわけですが、「あなたの顔」は「こと」に含まれません。「あなたのこと」はあくまで抽象的な内容です。
(これを理解するのに便利な例文。「彼を持ち上げる/彼のことを持ち上げる」―前者は物理的に抱っこしていますが、後者は周りに彼の良い噂を吹聴して彼の評価を上げているわけです。)
逆に日本語で「あなたが好きです」と行ってしまうとどんな感じがするでしょうか。私にはやっぱり英語「I love you.」の直訳のように響きます。現代語で言う「愛」がそうであるように。
何が西洋っぽいのかというと、そもそも「あなた」なるものがアプリオリに存在するという感覚。日本的な感覚では「あなたのこと」無しに「あなた」は存在し得ないし、それはたとえ恋人であろうとも到達できない奥の方に存在する「あなた」なのだろうと思います。「あなた」という言葉は遠くのほうという意味の「彼方」が元々です。
この言葉を、一月にもこのデイリー孝太郎で使用したことが、なんだか随分前のことのような気がしながらも、この三ヶ月は、本当にあっという間に過ぎていったと思う。まさしく、一月は往って、二月は逃げて、三月はもうすぐ去っていってしまう。
先日、まだまだ先だと思っていた、姉の結婚式があった。結婚式というと、教会で行うキリスト教式のイメージが私の中では強いのだが、姉の結婚式は、神前式であった。
母も、結婚式は神前式だったらしく、神前式は良いものだという話を耳にしていたが、結婚式に参加したこともなく、ましてや神前式の雰囲気などわからない私は、どうもピンとこなかった。
しかし、実際のところ、厳かな雰囲気の中、新郎新婦とその親族だけで行われる神前式は、本当に良かった。しきたりに則って進められていく式は、確かに堅苦しくもあるけれど、所々で響く雅楽の音や、静かな式に漂う、あの少し張りつめた清らかな雰囲気に、私はとても惹かれた。式の感想を、何か他の言葉でも表現したいけれど、今は「良かった」以外の言葉は思い浮かばない。
正直なところ、今まで結婚式に対する願望や夢のようなものはあまりなかったのだけれど、姉の結婚式に参列して、自分も結婚式は、きっと日本でしか挙げられないであろう、神前式がいいと、ぼんやり思った。
「人に優しく」というどこかで聞いたことのあるような題を付けた作文を、どうやら私は小学校の卒業文集に載せていたようだ。何年ぶりかに開いた文集には確かに私の(何年も前の)筆跡で「人に優しくしよう」といった内容の事が書かれていた。あらためて見ると、まるできれいごとを並べたみたいでそれを書いた実感さえない。
文集を開いた時は、私はまさにちょうど「優しさ」に対してかなりの疑念を募らせていた時だった。「優しいね。」と言われて、とても恥ずかしい思いをしたのだ。もちろんその言葉を発した相手に悪意はなかったはずだ。しかし「どうも、わざわざ高いところから憐れみの情をありがとう。私たち同じ人間なのにあなたはずいぶん余裕のある方のようでいらっしゃるのね。」と私には響いたのだった。その時は精神的にも不健全でずいぶんひねくれた状態だったので、今から思えばこうやってへそまがりに捉えたことの方がよっぽど恥ずかしいことなのだけれど。
兎にも角にもそれ以来、私の中の清らかな優しさの定義が崩れ去った。優しさは優越感無しには生じない。相手に対する優越感から生れる心の余裕によって「かわいそうだ」という感情が生れてそこに情をかけてやる。優しさは主体にとっては高慢で、客体にとっては卑屈なものでしかない醜い感情なのだと思い込むようになった。
たとえば、募金は自身が優位にあって生命の危険がない状態だからできることだ。また、いじめを助けるにしても次に自分が被害にあわないような身分でないとできない。井戸に落ちんとしている子供をとっさに助けようとする孟子の性善説にある「惻隠」の気持にしても優しさ・憐れみの生じる段階では助ける側の身の安全があってのことだ。時折起こる救助者の事故は、優越の計り間違いによって生れた偶然だとさえ感じていた。同程度の人間の憐れみは優しさではなく傷の舐めあいにしか見えなかった。
こんなはずじゃなかったのに。文集を繰り返し読んで、そこに書かれたエピソードを何度も頭の中で蘇らせた。実感が湧くまで、小学生の頃の感情を掘り起こした。そしてぼんやりと思い出したもの、これは何年も経ったのちの理想による脚色かもしれないけれど、「優しいね。」と言われた時のなんだかこそばゆいような、体の底からじんわりと染み出すような喜びの感覚だった。優しさは与える者も受け取る者も心温まる感情であることに間違いはない。そうでなければただの嫌味だ。素直な「ありがとう。優しいね。」という言葉と、「他人に優しくありたい、力になりたい。」と純粋に思う気持ちをすっかり忘れていた。
きっと「優しいね。」と言われて辛くなった私は、本当に優越感を得ていて相手を憐れんでいたのだろう。優しさに対する見返りを無意識のうちに求めるようになっていたのだろう。さらに、実際に相手にもみじめな思いをさせていたのかもしれない。そうだとしたら、本当に申し訳なかった。そして、優しさの概念まで変えようと試みていた。
こうやって文字にするとすごく嘘くさくて虚しく響くけれど、そしてあの作文以来はじめてだけど、やっぱり「優しさ」を持てる人間になりたい。今度は利己的でない優しさを。
実は明日から温泉旅行なのです!だからなんやねんという感じですが・・・。
「温泉」って「温かい泉」ですよね?
少し前ですが、温泉を掘っていて大爆発!というニュースが世間を騒がせたのを思い出します。
自然と湧き出たものを利用して疲れをとる温泉も、欲を出してあっちらほっちら掘り始めると、その湯にキバを向けられてしまいます。
もともと水はつかみどころのないものなので、この手にしようなんて考えがそもそも間違っているような気がしますが。
だからテレビ番組で秘湯を求めて雪山を登っている芸人さんとかを見ると安心します。温泉ってそうゆうもののような気がします。
ちなみに私は湯けむり殺人事件も好きです。
温泉は全国各地にあるから、2時間ドラマのロケーション的に好都合なのでしょうか?
みなさんは最近「温泉」なんぞに浸かったりしましたか?
自然からちょっと拝借して、浸からせていただいてます。なんて謙虚に考えたら、地球の温かみを感じることもできますよ。
でわしばらく京都を離れます。みなさんお元気で・・・。
農村は保守的、という話をよく聞きます。保守の支持基盤と。過疎と言える町を通った際、確かにそれを物語る看板が立っていました。道路工事を応援しよう、と。
「日本の美しいふるさとを守る」という言説もまた、よく語られます。先代からの姿を受け継ぐ、と。これも、農村がよく例で語られます。日本には四季の美しさがある、と。
そんな田舎、過疎の進んだところ、車も住民も見かけない場所に、「非武装、核放棄宣言の町」の表示を見付けました。何か嬉しくなりました。素朴な平和の願いとはこういう所に見られるかもしれないな、と考えました。建前とはどこか景色の違う思いになりうるかもしれないな、と。
そして私はその夜、頭痛がしていました。ジンジン。ギリギリ。ガンガン。色々な周波数の痛みが襲って、ホワイトノイズ的な耳鳴りを奏でていました。そしてそのうち、私は頭痛とは違う波動を感じ始めました。
それは地震でした。揺れは大きくないものの長く続く地震でした。余りに長く続くので私はそれが地震であることに疑いを持ち始めたのですが、感性を研がしてみると、揺れを感じているのは頭痛の頭だけで、それ以外の身体の方は揺れを感じていません。頭だけが「ゴゴゴゴゴ…」とジョジョ的に唸っています。
揺れが頂点に達したところで、後頭部から「ブチュッ」という音がしました。それと同時に頭の中に冷たいものがじんわりと染み渡ってゆきます。脳が融けているのだと分かりました。死ぬと思いました。しかしながら死への恐怖と同時に起こったのは、お漏らしの非現実的な快感でした。液化した脳髄が融け残った部分に浸入してゆくのは快いものがありました。恐怖と快感は同時に起こったと言うよりもそもそも同一の感覚であったようにも感じます。
脳が半分ほど液体になったところで目が覚めました。お漏らしはしていませんでしたが、寝坊をしていました。