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ある本を読んでは飽き、途中で別の本を開いては閉じ、ということをどうも最近繰り返している気がした。数えてみると、どうやら私は四冊の本を並行して読んでいるらしい。大学の講義のテキストや、参考書として使用される単行本も数に入れれば、十冊以上をただいま読書中である。
別にこんな数字は自慢にならないはずで、読者の中にはもっと多くの書籍を並行読みしている方も多いだろう。そのこと自体が良いか悪いかはここでは問題ではない。そんなに多くの本を同時に読み進めていながら、私たちの頭がたいして混乱しないのはなぜか、ということを考えてみたいのである。
外山滋比古は『思考の整理学』の中で、小学校の時間割の例を挙げて、「頭の整理をするためには異質なものを接近させるとよい」ということを説明している。国語や数学、理科、図工、さらには体育という脈絡のない科目がランダムに配置されていることで、前の時間に習った科目のことを「忘れ」(=脳内に定着させ)、頭をリフレッシュすることができると言う。
この原理が「並行読み」にもあてはまるのではないだろうか。経済学の教科書を読み、疲れて小説に浸り、そういえばと思いだして精神分析のおさらいをする。こんな風にバラバラの情報を頭に入れれば、脳はそれらを別個に処理し、蓄積してくれる。多忙が続いて小説に戻るのが久方ぶりになったとしても、続きから読み始めれば以前に読んだストーリーが鮮明に蘇り、その世界に入り込むのにそう時間はかからない。
ただし、ラテン語の後にフランス語を勉強したり、『夢十夜』のあとに内田百閒を読んだりということはしないほうがよい。私にも経験があることだが、どちらに何が書いてあったかを混同することがあるからだ。無論、両者の共通点が強調されるというプラスの面もあるのだけれど。
したがって「より有効な並行読み」を提案するとすれば、外山の言葉そのままであるが、「異質な書物を接近させよ」ということになる。あとは、記録をつけながら読むなど「完全忘却防止策」を適宜施せば、読書生活はより有意義かつ快適なものになるはずだ。
ビッグバン理論というのがある。
それが起こったとき(確かに起こったものとして)、それをわれわれが遠く離れたところから眺めていたならば(そうすることが可能だとして)、多分、その「大爆発」に伴われそうなどんな音も我々が聞くことはないだろうから、なんとなく拍子ぬけするだろう。
無重力状態で、ビー玉大の金属球と、同じくらいの大きさの水滴をゆっくりぶつけると、水の性質からして、金属球にビシャっとまとわりついて、水に金属球が覆われた状態になる、というのは間違っていて、水は表面張力というやつで球形を保とうとするし、金属は水をはじくので、金属球とくっつきはするけど水の中に金属が入った状態になったりはしない。球がふたつ並んでくっついたようになる。
同じく無重力下で、たとえば宇宙ステーションの中で、水を浮かべるとする。分量は、直径で3、4mとしよう。どうにかして人がその中に入っているとして(大きい浴槽にたっぷり湯をはってそこに潜っているときに地球からの重力と浴槽が消えてしまったらできそうだ(無理だが))、その人は窒息する前にその水の玉の中から抜け出られるだろうか。
自分で見たらいいものを、百足も律儀やな、というのは置いといて、普段意識しないことを急に考えると、案外混乱するのは日常のことほどあるように思います。
かつて通った道、電車の乗り口ひとつとっても、いつも何両目?と問われると分からなかったり、靴をどちらの足から履くか分からなかったり。
でもそれが日々を改めて意識することにつながるかもしれません。それが「価値のある」こととは限りませんが。谷川俊太郎が詩で述べる「日々の生活に風穴を空ける」感覚です。
通った道を久々に歩くと、建物の配置だけでも何か驚きに近い感覚に包まれてました。
今日、久々に泣いた。
次から次へと溢れ出ては、重力に従って流れ落ちて、自分では止めることもできなかった。
でも、不思議と心の中はとても静かで、溢れ出そうとするものを、せき止めようともせずに、ただただ流し続けるその行為は、何処か心地良くもあった。
まるで、今まで自分の中で張りつめていた、凝り固まっていた気持ちが融けて、涙と一緒に外へ外へと流れていくような、そんな感覚。
涙を流すと落ち着くことができるのは、これが理由かもしれない、と思った。
孝太郎の原稿遅れてるのに、風邪の諸症状に若干侵され気味の作者ですこんにちは。
頭が回りません。
うわあ書くことすら思かないや。
今私がこうしている間にも、同じ時間はまわるまわるまわる………
"時がまわる"って、何で言うんでしょうね。"時が流れる"ってのも言いますよね。え?時がまわるなんて言わないって?そんな人も、い
るいる。まあ要するに適当なんじゃないのかな。やっぱり時なんてものの動き方がどんな風かだなんて分からないわけだから。適当。
但し、"時が進む"。前・後って感覚はあるらしい。未来・過去みたいな。
果たして私たちは先に向かう存在なのかしら、なあんて思っちゃうけどね。
でもそうであって欲しいな。見えない未来では、風邪を一瞬で完治させた自分が居て欲しいし、そう期待できるじゃない。
桜が散った。大小の枝からは、初々しい薄緑の若葉が萌え出でている。だんだんと日も長くなり、早くも初夏の訪れかと気ばかりが急く。
しかしよくよく見てみると、どの桜木もまだうっすらと赤味がかった面持ちを呈していることに気づかされる。赤味の正体は、桜の蕊(しべ)である。
「桜が散る」と言うとき、我々はふつう桜の花びら(花弁)が散ることを思い浮かべている。が、それは実は第一段階にすぎない。花びらが散り終わった後も、桜の枝先には蕊(おそらく“おしべ”)が残っているのだ。花びらと同様、蕊もやはり桜色をしている。だから桜吹雪がひと段落しても、蕊がまだ残っている桜木は全体として赤味を帯びて見えるのである。
春も終りに差し掛かったころ、ついにこの蕊も地に落ちる。これを昔の人は「桜蕊降る」と表現した。そんなことを高校の古文の授業で習った。
過ぎたりし我が世の春の思ひでを忘れむとてか桜蕊ふる
その話を聞いて詠んだ私の歌である。
桜は実にはかなく散る。我々は散りゆく桜花を見て、ある種の嘆息感を味わう。その嘆息感は、蕊の残った木を見るたびごとに繰り返し再現されるのである。木に残された蕊は、少し前まではそこに桜が咲いていたという証拠であり、それはそのまま、はかなく散った桜花の名残でもあるからである。
しかし蕊が落ちてしまえば、桜木には青々と葉が茂り、何事もなかったかのように季節は過ぎてゆく。桜が咲いて、そして散っていったことを思い出す人など、もはやいなくなる。そういう意味では、「桜蕊降る」という現象は「無常を超えた無常」と捉えられるかもしれない。「桜が散る…嗚呼なんとはかない…」という感慨さえもはかなく散ってしまう。そんな、一段高い所にある無常観を桜の蕊は教えてくれている気がする。