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暦の上では今日から夏が始まる。暦の上だけでなく、今年に限っては本当に夏が始まったようだ。五月に入ってから暑い日が続いている。近所のアパートの前を通り過ぎたとき、何かが軋む音を聞いて「蝉が鳴いている」と思い違えたのも、ごく自然な流れだった。軋みながら回っていたのはクーラーの室外機だったが、どちらにしてもあたりはずいぶんと夏の色が濃い。
五月病なんて言っている場合ではないかもしれない。思うに五月病というのは、五月が過ごしやすいぽかぽかした陽気だからそれにつられて気分が弛緩して起こるので、いきなり夏になったのではぼおっとしている暇もない。
しかし誰しも四月の疲れがたまっていることは確かだ。昭和の日だとかみどりの日だとかそんなことに興味はないけれど、日本のゴールデンウィークはうまいことできている。四月についた勢いを一旦緩めて、長期的な目でこれからのことを考えたいものだ。
四月はそれなりの充実感を持って過ごすことができたと思う。授業が始まり、多方面から知的刺激を受けた。友人や教官との新たな人間関係も始まった。しかし、それはやはり、四月が持つ不思議なパワーに乗ったからできたことであり、周囲に漂う熱が冷めてもこの心地よい状況が続くかどうか、それはわからない。気を張りすぎる必要はないけれど、のんびり構えすぎては置いていかれる気がする。
もう少しさわやかな気候ならもう少しさわやかなことを考えただろうが、この暑さでは仕方がない。
このときロープは地面から高さ0メートルのところにある。
さて、ここでこのロープの長さを1メートル伸ばす。一部分だけ偏って弛ませるのでなく、まんべんなく弛ませる。するとロープは少し地面から浮くことになる。これを遠くからみると、地球を、それより少し半径の大きな円がとりかこんでいるような状態にする。
ここで問題だが、このようにきちきちにまいたロープの長さを1メートル伸ばしたとき地面からロープまでの高さはどれほどになるだろうか。
こんなの簡単だ、式をたてればよいんだ。という人はもちろんいるしそれで求めればよい。しかし私は方程式を使うのもつまらない、もっと直観的というか面白い解き方はないか、と思って考えた。
もともと40000キロだったロープが40000.001キロになったということは、1メートルあたり40000000分の1メートル伸びたということだ。そんなわずかな分だけ伸びてもそう余裕はできない、小動物も、ミミズさえも通れないくらいしか地面との隙間はできない。
これはわかりやすい。1メートルにつき0.000025ミリメートルロープが長くなったってかわりゃしないと思って当然だ。これはよい。ロープはあいかわらず地面とほぼ密着したままだ。
そう思ったが大間違いだった。
我々の日々の生活においては、地面は平らといってよい。だからロープを地面から少々浮かしたって、そのために伸びるべきロープの長さはほぼ0なのである。つまり1メートルあたり0.000025ミリしか伸びなくても地面との間にはそれなりに隙間ができるのだ。
こんなことは次のように計算すればすっきりわかる。
2πR+1=2π(R+x)
2πx=1 ∴x=0.16メートル
つまり16センチの隙間が、たった1メートル伸ばしただけで得られるというわけだ。
なかなか驚きである。
ところで、この結論は直観的にはわからない。(多分)
上のような式をたてたおかげでわかることなのだ。
まさか実際にこんな地球にロープをまく問題に生活のなかでとりくまねばならない事態は起こりやしまいが、しかし感覚でどうしてもとらえられないものを目で見てよくわかる形で示してくれるのが方程式であるのだな、と上のようなものを見ると思わされる。少し方程式を見直す瞬間である。
(追)
上の問題の、他の面白い解き方があれば是非教えてください。
「帝国」や「マルチチュード」の著者の一人で,現代の政治的発言で論争の的となっている考えを発表し続けている,イタリア出身の哲学者アントニオ・ネグリ氏の来日が拒否されてから一ヶ月が経ちました。この出来事が案外早く忘れられているところに残念さを感じます。
現在の形のグローバル化の不条理な点や,「アメリカ帝国主義」では捉えきれない「帝国」の概念など,筆者が不勉強なためまともに例示することも難しいのですが,現在形の問題に対して非常に活発に発言し,それ故政治的な問題にも巻き込まれる氏。今回3月に来日予定があり,日本の主要大学がグループを組んで講演などの体制を取っていて,その方面の人々からはかなり注目を集めていたのですが,ネグリ氏の渡航に際し,それまで不要としていたビザを,ネグリ氏がその急進的な考えゆえ政治思想についてから逮捕歴があることを理由として渡航3日前に請求,かつその逮捕についての詳細な書類の提出を要求し,来日が叶わなかった,という出来事。覚えている方は小数になっているのではないでしょうか。
事実上,来日拒否と言っていいと思いますが,大学で学ぶ現在,事柄の重大さが良く分かるように思います。ある先生が「大学で指導要領を作ったら恐ろしいことになる」という指摘をしていました。研究機関ゆえ,内容が一律に出来ないというのはもう自明のことです。この発言はそれに加えて国とか,権力が大学の内容まで定めたら学問が成り立たない,というところまで含意していると考えます。
政府の対応は極めて姑息の印象がありました。インテリを気取るんなら言論でネグリ氏に反論してみろや,と吐きたくもなります。幸い,自分は多少こうして書いて思ったことをアピールできるので,孝太郎に迷惑をかけつつ,こんな風に今更ながら書いてみたわけです。
確かに最近、新学期が始まり、授業だとか色々の新しい活動も始まり、張り切っているところに断続的な雨。少し参っていたところである。しかし、これは私の悪い癖でもあるが、とにかく自分独りの力で何もかも動かしていこうとすると(特に人間を相手にする仕事などは)確実に上手くいかない。一生懸命耕したあとは、自然の力に任せて雨を待ち、これによって初めて田畑が完成するという、このバランス感覚は、農民でない私たちが生きる際にも参考になるのではなかろうか。私は「待てる」人間になりたい。
また一方で「人事尽くして天命を待つ」という諺があるが、人事なるものもそう簡単に尽くせるものではないだろう。天命を待ってから人事を行っていくフレキシビリティも失いたくないものだ。
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という文章を先週載せようと思ったら、既に「4/25」と題された文章が載っていて、「おかしいな」と思いつつ、「じゃあ来週載せよう」ということで一週間置いておいたら全く季節感が変わってしまったのでありました。最近暑いですね。
これは、身体が疲れていて、思うように動かないと、精神的にも余裕がなくなったり、普段気にしないようなことに対しても気に病むようになったりすることからも感じることだ。
規則正しい生活をするというのは、勿論、自身の身体の健康のためであるが、それと同時に自身の心のためでもあるのかもしれない、と思う。規則正しい生活をして、身体を良い状態に保って初めて、心にも余裕が出てくるからだ。逆に、不規則な生活を続け、身体に無理をさせることは、心に無理をさせることにも繋がるのだろう。
さて。最近の私自身はというと、どうも不規則な生活が続いており、身体に無理をさせていることも多いように思う。
自分の身体と心の限界を知った上で、無理し過ぎず、かといって易きに流れて楽をし過ぎることもなく、常にある程度の余裕がある状態で気持ちよく物事に取り組みたい。
先週はお休みさせてもらいまして、カレンダーにぽっかり穴を開けることとなり失礼致しました。
先週のまさにその日から私は日常を暫し離れて過ごしていました。そこにいるのは家族や親類だけ、そうなると当然のことなのだけれど普段のコミュニティーからの断絶の中にいました。たった数日間ですが、超日常的な異空間に住まっているうちに自分の存在が不思議なものに感じられてきました。その感覚は自分が宙に浮いているような、もしくは自分が徐々に薄らいでいくようなものでした。
今まで経てきたそれぞれの学校・地域・そのほか様々な共同体をベン図に表して、その重なり合った一番色の濃い部分に私が立っているイメージがふと思い浮かび、そしてそのときの想像の中の私は地面から少しずつ浮き上がっていました。浮き上がっていないと気にも留めなかったことかもしれません。誰かと誰かが意外な関係で知り合っていて、私とあなたの出会いが人生を変える程の影響力を持っていて、今まで経験した人との関わり合いの中でどんな些細なことでも欠けておれば今の自分は存在しなかったのかな。そんなことを思うと、私は急に自分の属するコミュニティーに戻りたい気持ちに襲われました。群れを成さなければ自分を確かめられないなんて人間(というより私)って寂しい生き物ですね。
人間との出会いを必然と捉えるか、偶然と捉えるかは個人の自由だとは思いますが、一人になりたい時も一人で生きてきたのではないということを忘れずにいたいです。