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だが、最近になって知ったのだが、どうやらそうでもないらしい。習熟度別は欧米では破綻済みの学習法で、学力を底上げせず、学力格差を拡大するだけだという見方が強いらしい。また、文部科学省の学力調査の結果、習熟度別授業を受けた子と受けない子の成績には差がないことが明らかになっているというのだ。
確かに、習熟度別にしなければ、一クラスの中に、ある教科が得意な子も苦手な子もいることになる。それは一見効率が悪いようにも見えるが、得意な子と苦手な子が同じ授業を受けることで、苦手な子が得意な子に教えてもらうことができるのは、実は効率が良いともいえる。というのも、苦手な子は、得意な子が友人またはクラスメイトであれば、教師よりも質問をしやすいし、得意な子は得意な子で、苦手な子に教えることを通して、自身の理解を深めることができる。後者は、心理学から見ても、個人での資料を読むだけ、聞くだけの学習による記憶(学習)定着度は10%~40%程度なのに対して、聞いた内容を書き取り、更に人に話す学習だと定着度が90%であることを考えると、確かだといえる。
今まで漠然と良いものだと思い込んでいたものが、そうではないと知って、非常に驚いた。もし自分が教師だったとして、良かれと思って生徒にしていたことが、そうではなかったら…と考えると何ともいえない。何でもただ鵜呑みにするのではなく、色々な角度からものをみる、様々な情報を集めて分析する。これらのことの大切さを改めて思った。
横顔
いつも人と話すときは、真正面からその人の顔を見て話す。
気恥ずかしいときは、目をそらして。私の話をわかって欲しい時はしっかり目を見つめて。
話をする時以外には、あまりじっと相手の顔を見つめることはない。(少なくとも私はそうである。あなたの場合どうかは分からないが。)
私の頭の中で再生する友達のイメージは、いつも私と会話をするときのその表情である。それはおおかた変化に富まず、一定の彼(彼女)の定義を与えてくれるものだ。そこには友達がいつもどおりの友達であるという安心と、少しの退屈さがあった。
つい先日のことだが、ある人の横顔をじいっと見ている私に出会った。それは男性であったので、まるで恋愛感情を持っているかのようだが、残念ながらそういうお話ではない。彼のイメージは前述した通り私が会話するときの彼であったが、横顔の彼はいつもの彼では無かった。彼はどこか遠く前方に意識を集中させていて、そこには無防備さがあった。私に向かい合う時の緊張がそこには無く、あどけないような大人なような、なんとも言えない雰囲気を醸し出していた。他人に見られていることを意識しないために、自然と彼の内面から光の部分と影の部分が滲んでいた。横顔って不思議だなぁ、正面からじゃ知りえなかったものが見えてくる。彼が今までの人生で歩んできた歴史というか(それは言いすぎか?)、積み重ねた何かまで感じ取ることができた。
私が知っている相手の人間像が、その人の人格全てではない。それはひどく当然のことだが、忘れがちなことだ。定義づけと義務づけが大好きなのが私の性分、なおさら何事も決めてかかってはならない。決めつけて、見えなくなって、最後は後悔する。それだけは、したくなかった。
どうも。もうすぐ梅雨ですね。今小雨が降っているだけで、胸に絶望というか虚無感というか兎に角湿ったものが張り付く私にとって、笑えない時期であります。でもその後に太陽サンサンの夏が待っているので、なんとか生き抜いていこうと思います。この鬱々とした気分の分、いや数倍、空に私にみんなに何て幸せなんだろうと次に思える日が近いことを知っているからです。そして知らない人がいたら、教えてあげたいと思うのです。
今日は立ち読みしたニュートンの別冊に載ってた次元についての話をしようかと思ったけど、雨が降って空が近くなったのでもういいや。とりあえず原口と新口が、っていうか口と肛門が、つながっていながら一個体としてやっていけるのは、人間が3次元の産物だからだということらしいです。言われてみればそりゃそうですね。ドーナツの断面図は2個のマル。だからといってドーナツの美味しさに変わりはないけれど。
教官の案内で、大学の経済学部図書室を見学する機会があった。開架と書庫の両方があって、うろ覚えの数字だが、開架には約5万冊、書庫には約46万冊の本があるということだった。
入口を入ってすぐの開架スペースは、変哲のない「図書館」であったが、一歩書庫に足を踏み入れると、そこは独特の雰囲気を呈する不思議な空間だった。年季の入った本のにおい、靴音の響く感じ、埃っぽくよどんだ空気……どれも気分を高揚させる魅力的なものだった。
特に興味深く見学したのが、別館にある貴重書庫だった。地下二階にあり、入口は強化アクリルの扉で固く閉ざされている。照明は、人が中にいる時以外は消しておかなければならない。さらに、地下は湿度が高いため、24時間除湿機が稼働し、書庫内は低湿度に保たれている。
さっそく出迎えてくれたのはアダム・スミス『国富論』の原本だった。現代の書籍と比べるとかなり大型で、豪華な革装丁である。200年以上前のものにも拘らず、活字はしっかりしていて十分判読できる状態だった。この本は英語で書かれているから、私でも自分の語彙の及ぶ範囲で読解することも可能だった。
さらに古いものとしては、トマス・アクィナスの『神学大全』があった。こちらはラテン語の本で、おまけに古い時代の装飾的な活字で印刷されているから、内容はさっぱりわからない。ともあれ、「本物だ」という感慨はひとしおであった。面白かったのは、欄外に手書きの書き込みがあったことである。この本の所有者であった13世紀の人間が、思いつきや疑問点などを書き留めたメモに違いない。彼は21世紀の学生が自分の走り書きを目にするなどと想像したろうか。
日本のものとしては、山方蟠桃『夢の代』の写本や、福沢諭吉『文明論之概略』等があった。江戸や明治に生きていたわけでもないのに、なんとなく「懐かしい」という感情が湧いてくるのが不思議だった。
「私は17世紀ヨーロッパの研究をしているから、その時代の書物に慣れっこになって、それより後の時代の本を見ても、割と新しい本じゃないかと思っちゃうんです。」案内してくれた教官はそう言っていた。実際そうなのかもしれない。貴重書庫には「貴重書」がずらっと並んでいる。ここにいる限り、貴重書はもはや「貴重」ではない。何かしら神々しいイメージを抱いて書庫に入った私もいつしか、中世や近世の人々と打ち解けておしゃべりしているような、やすらぎに似たものを感じていた。
こちらの手違いで記事のアップロードが遅れました。申し訳ありません。
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年間3万人以上にのぼる自殺について,政府が全国規模で意識調査を実施したところ,「今までに本気で自殺を考えたことがあるか」との問いに「ある」と答えたのは全体で19%いたそうです。職業別ではパートやアルバイトが26%と高く,年代別では30代が28%で最も高く,続いて20代が25%だったそうです。さらに「身の回りに自殺した人がいる」と答えた人は57%だったようです。
内閣府自殺対策推進室は「さまざまな経験をした年配の世代より、若い世代で自殺を考える人が多いのは意外だった」とコメントを出しています。
自殺をどのくらい切実に考えたか,ということや,いつ考えたかなどが読み取れないので何とも扱いがたいアンケートではあるのですが,5人に1人は自殺を考えたことがある,と。もう自殺サイトどうこうで対応しきれる問題ではなさそうですね。非正規雇用者の生活実態はもう嫌というほど判明していますし,一向に改善しないことも周知の事実化しているように思います。
推進室のコメントもなんだか能天気。若者の自殺願望の(極めて浅いレベル~極めて切実という幅がある中でも)高さはかなり前から指摘され,「命は大事だよ」キャンペーンのようなものも良く見ていたようにも思うのですが。
何より憂うべきは自殺した人がいると答えた人が57%いることでしょう。この情報からは。2人に1人以上は自殺した人が近くにいるんですよ。これはもう急務で解決すべき点ではないですか。確かに3万人,その関係をたどれば相当数の人につながり,その悲しみも深いことでしょう…
と,息巻いたところで,もう一つのこの調査の情報は,「3千人を対象にアンケートし,1808人から回答を得た」ということです。
3000人。3万人の自殺に対し3000人,そして沈黙が1192人。1808人の半数以上には身の回りで自殺者がいても(もちろんそれは悲痛なことですが),これを現代社会の病理と観るのは頼りないです。
逆に,こういう意識調査の前に既に自殺者の多さは何年も指摘されていて,かつ事実上過労死や,意思に反したものがあることも指摘されています。あっけらかんと死ぬ人間はそう多くない中,そろそろ本気で改善に乗り出すならば,こういう調査より先にやることがあるだろうが,と思いました。
情報を批判的に(嫌味に)観ることと,事柄を別の視点で見ることを,ちょっと思い出した今日の記事でした。
先週の記事からも察せられるとおり、最近言語学に強く興味を持っているので、今回もそのあたりの知識をひけらかして終わろうかと思う。
五十音図というのは「あかさたなはまやらわ」の順番に並んでいるのだが、今までごちゃごちゃに見えていたこの順番の意味が最近分かって感動した。「あ」が最初なのはまぁ母音だからよい。問題は子音を伴った以下の順番である。
先に基本的な述語を説明しておこう。子音というのは口の中のどこかの部位を使って息の流れ方を変えて音を調節して出しているのであるが、この働きを調音(母音に関しても調音という)といい。調音を行う部位を調音器官という。また、調音器官が同じであっても様々な音が出せることが分かる。子音の発音の瞬間に声帯が震えていれば有声音といい、息が鼻に抜けていれば鼻音という。
まあ、理屈をこねるよりは実例を見た方が簡単であろう。五十音を順番に見ていこう。
「か」…調音器官は軟口蓋。つまり、口の上蓋の柔らかい部分であるから奥の方。この軟口蓋と舌の付け根で一旦息を止めてから一気に解放するため破裂音と呼ばれる。また、声帯は震えていないので無声音。有声音は「が」になる。
「さ」…調音器官は歯茎。専門用語としては「しけい」と読む。「し」のみ後部歯茎を使う。こちらは破裂を伴わず、狭い隙間を息が通って音を立てているので摩擦音。無声。有声音は「ざ」になり、やはりそのまま点々を付けた形になる。
「た」…無声歯茎破裂音。ほら、もう分かってきたでしょ。有声は「だ」で、またしても点々の形。
ここまで書いてきて疲れたので、「な」以降は来週にまわそうと思う。でも何となく「あかさたな」ぐらいまでの順番の意味は分かっていただけたのではないだろうか。それでは続きをお楽しみに。
波の音を始め、風鈴の音や木々のざわめき、鳥のさえずり…「ゆらぎ」を感じることのできる音は身の回りに沢山ある。上記のような自然から生じる音は勿論だが、人間の心臓の音などにも「ゆらぎ」があるそうだ。新生児、乳児が母親に抱かれて安心するのは、心臓の音に「ゆらぎ」を感じるからだという。
さて、このような「ゆらぎ」に対して感じる心地よさというのは万国共通のようだが、虫の音に関しては、日本人と欧米人で正反対の反応を示すらしい。日本人が虫の音、例えばスズムシの鳴き声を聞いて情感を覚えたりするのに対し、欧米人はその鳴き声を雑音としてしか捉えられず、いらいらするというのだ。
これには、脳の構造の違いが関係していることが明らかになっている。直感的思考や、空間的機能に優れている右脳と、論理的思考や言語機能に優れている左脳。人は、「ゆらぎ」があるのとないのとに関わらず、音というものを基本的に右脳で処理しており、欧米人は虫の音を聞いたときも、他の音と同様に右脳が反応を示す。しかし、日本人は左脳が反応するという。これは、日本語が母音主体の言語だからと考えられているらしい。というのも、虫の音や川のせせらぎなどの自然音と母音の音の成分はほぼ同じであり、この共通性から、日本人は虫の音等の自然音を左脳で処理し、意味のある「言葉」、感情的な音として聞いているのだ。
自然の音を左脳で聞く能力というのは世界的にも珍しいそうだ。この自然音を左脳で聞く能力が、日本人独特の情感、そしてそれを言葉で表現する俳句といった文化を生んだのかもしれない。
言語の違いが音の受け取り方、音に対する感覚にも違いを与え、それが、文化に影響を与え、違いを生み、さらにそれがまた言語にも影響を及ぼして…このようなお互いの繋がりを感じるとき、また繋がりが研究等で明らかになったことを知るとき、私は面白さを感じるのだ。