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今電車を降りた。ホームでおっさんが言い合いをしていた。言い合い…というより、一方的にガラの悪いおっさんがもう一人の方をどやしつけていた。
「てめえもう50歳なんやろが!!ええ歳こいて非認めんかいこらぼけ!!!」
みたいな感じだったと思う。もう一人の人は曖昧なへつら笑いのような表情でそれを聞き流していた。
誰もが一度は目にする光景であろうと思う。こういう時、決まって私は個人的なジャッジで下らないなと思う方をすごく迷惑そうに見るのであるが、同時に、ああいったおっさんたちにも仕事や家庭があって、ストレスやら何やら大変なんだろうなぁ…と要らぬ同情をしてみたりもする。
怒鳴っているおっさんは、ここぞとばかりにストレスを吐き出してやる、という顔をしているように見えるし、それに耐えているおっさんは「こんなこと慣れてるよ」と言いそうな雰囲気ですらある。
そんなおっさんたちは、今日も電車で寿司ずめにされているのだろう。
頑張れ、おっさん。
けど、ええ歳してそんな言葉使いしか出来ないなんて、やっぱりどうかと思うよ。
「嗅覚論」をとても興味深く読んだ。確かに言われてみれば、嗅覚に関して我々は乏しい表現方法しか持たないようだ。とはいえ、幾ばくかは独特な表現があるに違いない。そう思って脳内の語彙表を繰ってみたが、何も出てこない。気になってしょうがないから、『日本語大シソーラス』(山口翼著、大修館書店)を繰ってみたが、やはり何も出なかった。嗅覚表現には、本質的には「香る」と「臭う」の二種類しかないようである。つまり、プラスの嗅覚とマイナスの嗅覚である。あるいは快・不快と言い換えてもよい。しかし、その区別も今ではあいまいになって、「良いにおい」という使い方も普通である(ただし、「匂」という感じを使って「臭」と区別がなされることが多い)。
このように私なりの分析をしてみるものの、やはりなぜこれほどまでに嗅覚関係の語彙が少ないのか、という問いに直接答えることはできそうにない。そこで私は、思考の舵を「感覚に関することばの役割は何か」という問いへと切っていった。
結論からいえば、この場合ことばは「圧縮」あるいは「濃縮」の役割を果たしているのではないかと思う。目の前に美しい景色が広がっている。私はこの景色を一生忘れたくないと思う。その瞬間私の中では、意識的にしろ無意識的にしろ、景色の言語分節が実行される。陳腐で申し訳ないが、例えば「青い空」「白い雲」「赤い屋根」「緑の木々」といった具合である。紙切れに書きとめたり人に伝えたりすれば、この言語データは客観的な形で蓄積される。そしてそれを参照することによって、私はことばを脳内に再生し、続けて景色を「思い出す」ことができる。その景色を二度と見ることがなくとも、私は「思い出す」ことができる。
しかし嗅覚の場合は事情が違う。私はにおいに関する語彙をほとんど持っていない。これは嗅覚情報がことばによって「濃縮」されえないということを示している。したがって客観視できる形での蓄積は極めて困難であり、代替手段としてそれ以外の感覚にかこつけて言語記憶したとしても、どうしても「しっくりこない」。つまり、私は嗅覚の記憶をことばを介しては「思い出す」ことができないのだ。においのフラッシュバックが強烈であることは、この裏返しなのであろう。一度体験したにおいに再び遭遇したとき、濃縮されずに記憶の中を浮遊していた「においそのもの」が待ってましたとばかりに反応する。こうした一連のありさまをとらえることで、他の感覚がいかに「不当に」ことばと結びついているかということに、私は気づかされるのである。
以上は「嗅覚論」の下手くそな焼き直しに過ぎない。これを変奏曲と呼んでよいのかはなはだ疑問だが、嗅覚の不思議さについて考えるきっかけになった。新しい発見があったらぜひ教えていただきたいし、私自身も引き続き考えていきたいと思っている。
どちらもだいぶ売れているらしい。特にWiiというのは、コントロールバーみたいなのを持って、それを傾けたり振ったりして遊ぶらしく、私の良く知っている、十字キーとA、Bボタンでの操作とは一線を画しているようである。
ところで、私にとっての任天堂は「ゲームボーイ」に「ロクヨン」である。
特にロクヨンは、今までの、平面的な絵の中を平べったいキャラが上下左右に動くというのと違って(ま、所詮画面の中であることには変わりないが)、3Dスティックなるものが登場し、映像もより立体的なものになって、当時はそれがすごいものだった。
ロクヨンが出たころからなんとなく思っていたことだけど、ゲームがだんだんと「リアル」に近づいていくのにつれて(ここではゲームの世界が、ではなくて、我々のプレイ中の感覚が)、みんな今ではゲームが面白いって夢中になってるけど、だんだんと、やっぱり実際に自分で体を動かすのが楽しいんだってみんな思うようになってくるんじゃないか、野球ゲームもいいけど、やっぱり公園で野球してる方がいいんだって思うんじゃないか。
Wiiなんてものをはじめて見た時は、これはまた一段と実際的なものがでてきたな、と思った。きっとそのうち、専用タイツみたいなのを着て、センサーを置き、部屋にスクリーンをはって映像を映しながら、スポーツをしたり、アクションゲームをしたりするんではないか、あるいは、DSのソフトでよくあるような、何かを学んだりすることもできる、「ゲーム」から「現実」へ帰ってくるようなことが起こるんではないだろうか、と予感した。
ゲームというと何かと悪いことばかり言われるが、ゲームはゲームなりの「名作」があると思うし、それにやはり、外で野球をしようにもなかなか場所が確保できないといったいまの事情を考えると、ゲームもそれなりに役に立つものである。というか、あえてゲームに何か望むとすれば、そういうことである。つまり、別に実際にやりたいんだけど、実際やるには大変なことを、家にいながら体験したい、ということだ。
最近はもっと空想を膨らませていて、もしかしたら、ゲーム会社は、単にもっと性能の良いゲーム機を目指す、面白いものをつくる、ということだけでなく、社会貢献というか、「悪」と呼ばれるような世界から、こっそりと人々を連れ戻そう、そんなことを企んでいるんではないか、と思っている。もっとも、人々の方がさきに、何が本当に楽しいのかに気づいて、ゲーム会社がそれに追随してがんばっている、のかもしれないけど。
「無戸籍の連鎖を止める」ための初の判断ということで、親の戸籍の無いことが子どもに引き継がれるの防ぐと評価されています。
戸籍の無い不利益を避ける、というところは強調されましたが、戸籍の存続には触れないのが議論の主流で、何とも残念です。
詳しくは知らないのですが、戸籍制度が残る国(日本のWWⅡ時支配地域と被る)の中でも、韓国では撤廃の方向とか。不利益があり、「非嫡出児差別」などいろんな問題を産む制度ながら、なかなかほったらかしです。
「古き善き伝統」?いえいえ、明治以降に作られた国策の産物です。ザンギリ頭の方がまだ古い?
ある種、「生まれながらにしての」差別を生む構造なわけです。哀しいかな。これが当たり前であるのは、何とも辛いと考えるわけです。
視覚―赤い、青い、黄色い、白い、黒い、明るい、暗い、濃い、淡い…
聴覚―高い、低い、うるさい、静かだ、…
味覚―甘い、辛い、酸い、苦い、渋い、…
触覚―熱い、冷たい、痛い、柔らかい、…
嗅覚―?
嗅覚を形容する言葉というのは、考えてみると驚くほど少ない。「甘い匂い」「スパイシーな香り」だとか味覚に落とし込んでみたり、「生ゴミのような臭い」と物そのものに落とし込んでみたりしないと、我々は嗅覚を表現することができない。昔、理科の時間に「腐乱臭」とか「刺激臭」といった言葉が出てきたが、あまりしっくりこなかったものだ。
かといって、人間の嗅覚が発達していないわけでは、決してないような気がする。私の経験では、全国のローソンはどこも同じにおいをしているし、全国のカラオケボックスも何となく同じにおいがする。私はその微妙なにおいを嗅ぎ分けることができている。
これだけ繊細な嗅覚を持っていながら、それに言葉を当てはめようとしなかった先人の意図や如何に?
その答えにはならないかも知れないが、我々の嗅覚は言語と結びつかないために、記憶を生のまま保存するのに役立っている、ということは言えるのでなかろうか。久しぶりに入った教室の木の香り、子どもの頃よく遊んだ近くのどぶ川の香り、昔のある場面がにおいによって一気にフラッシュバックするということはよくある。このにおいに「○□い」という言葉を与えてしまうと、他の「○□い」においの記憶と混合し、脳の中で勝手に整理され歪曲されてしまう。そうなると、図書館の本を言葉によって検索するようなもので、思い出すことはたやすいのだが、嗅覚はタイトルのない本である。その分、においそのものを嗅いだときのフラッシュバック度は絶大である。嗅覚には斯く特殊な役割があると思う。
それは、視界の広さだった。
いつもよりも目の前が開けている感覚が「いつも通り」ではない原因だった。
そこで、私は、最近常に自分が若干斜め下を向き、自分の立っている位置からほんの数メートル先しか見ずに歩いていることに初めて気づいた。たとえ前を向いていたとしても、遠くのほうまでは見えていなかったのだ。
少し、いつもよりも上向きに、そしてより遠くを見るだけで、こうも見慣れた道が違ったものに見えるのか、と驚いた。以前このデイリー孝太郎で、学校まで行くのにいつもと少し違う道を通るだけで、見慣れた景色から新たな発見をすることができる、というようなことを書いたが、道を変えずとも、自分の視点を少しいつもと変えるだけで、見慣れた世界は姿を変えるのだ。
いつもよりも少し上を向く。すると、果てしなく広がる空と、遠くに山の木々が見えた。
視界は予想外に広かった。歩くうちに、次々と新たな発見をし、同時に自分がいかに周りを見られていなかったかに気付く。
今日の天気はあいにく曇りだったけれど、不思議と気分は晴れやかで、明日もこの広がった視界を保てる気がした。
先日私は奈良に出向いた。目的は、まさに奈良観光のためである。駅を降りてまず飛び込んでくるのは、お決まりであるがまぶしい中学生の制服と至る所でのんびりとくつろいでいる鹿たちだ。そして周りには奈良時代を彷彿させる、異国情緒あふれる雄大な建造物たち。私の住まう京都も、修学旅行生と観光客の数ではあちらにもひけをとらないが、やはりこの光景は異様であろう。一言で印象を述べよと言われれば、緑の下地に白と茶色の絵の具の撒き散らしたような・・・で片付いてしまうのは、私の感性の拙さゆえであろうか。
そんな奈良の地で、私が心惹かれたのは仏像たちであった。高校の日本史でお目にかかった数々の仏像たちというのは、大きなものは縮小され小さなものは拡大され図説という名の平面にぎゅうぎゅうづめに押し込まれていた。図説の仏像たちは、隣に配置された他の仏像の図との対比、もしくは異なる特色を持った他の文化との対比の目で見られていた。これはグプタ朝の影響を受けているだとか、これは漆で塗り固めてあるだとか、これは乱れた国を治めるために作られただとか、私の知る仏像の(断片的にしか過ぎない)知識は歴史の一部でしかなかった。調べればすぐに、誰もがこれらと同じ知識を得ることができる、客観的な事実でしかなかった。
言いたいことは「やっぱり生は違うなぁ」ということだ。人間と同じくらいの大きさのものと向き合って、かの有名な東大寺の大仏さんを見上げて、小さな仏様を愛しむように眺めて・・・いままで全部同じように見えていた仏像たちそれぞれに、命が吹き込まれたかのようであった。私は仏像一体だけをじいと見つめる。あるものは超然としていて、あるものは憤って今にも動き出さんとしている、そしてまたあるものはおどけた表情とポーズで私を笑わせる。それが何の文化に属し、何で作られているかなんてどうでもよかった。その感覚は、知らない人と初めて会ってみてその人柄に直接触れることで、事前に知らされていたその人に関する風評なんてどうでもよくなってしまうのに似ている。まぁ、あまりそんな状況下に置かれたことはないが。
この興奮をどうにかして伝えようと思った。しかしその方法はどうにも見つからなかったので、とにかく断片知識の1つを取り出して、「右の菩薩が唐風で、左の菩薩が日本風やねん。」と一緒についてきてくれた人につぶやいてみた。しかし、その言葉はただむなしく宙に消えてゆくだけだった。このとき、きっと周りの仏様たちにも私は笑われていたのだろなぁ。結局こうやって帰ってきてからも文字に還元できないのは歯がゆい。それゆえに、何につけても文字だけの理解を止めて、是非みなさんにも実際に足を運んで欲しい。こんな押し付けがましいことを言うのははばかられるが、やはり私は強く勧める。なんだって「生は違う」のだから。