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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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ふと気付くと、自分の中で大きな部分を占めていた絶対的な考え方のようなものが形を変えていた。変えたくても変えられないと思っていたそれが、自分でも気付かないうちに変化していたことにひどく驚く。

 人はいつの間にか変わっていく。変わっていないように見えて、その実、何かしらの変化がある。
自分が身を置く環境、時の流れ、積み重なっていく経験、人との出逢い…様々な刺激、変化を受けて自分も変わる。

 私は表現するのが好きだ。何かを創り出すことが好きだ。
自分から生まれたものは、それが、どのような形をとっていたとしても、そのときの自分が滲み出る、いわば、自分の一部というか、自分そのものなのではないかと思う。
 だからこそ、どんなときでも何か表現したいと思ったら形にしよう、と思う。自分には少しずつでも常に変化があって、ある瞬間に表現したいと思ったことはその時にしか表現できない。そして、その一瞬一瞬に生み出した自分の積み重なりが、次の、未来の自分を生むのだ。

 デイリーの依頼を受けて、早一年以上経つ。このデイリーを通して、言葉、文章というものも表現方法の一つだということを実感することができた。私は今回をもってデイリー孝太郎から去るわけだが、勿論これから先も、創り出すことはやめない。言葉という手段によって表現したいことがあれは、まとまった文章に限らずとも、思い浮かんだままを書きとめていこうと思う。
 たとえ自分の目指すところまでに行き着かなかったとしても、そのときの自分ができる限り、出せるだけの力、気持ちを込めて表現したいものを表現できたなら、最高だなと思いながら。

 今まで有難うございました。
 またいつか、会う日まで。

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 最近お気に入りのパン屋さんがある。こじんまりした小さなたたずまいで、おいしそうな匂いをいつも漂わせているそのパン屋はフランスのパンを主においている。そのなかでも私が心奪われたものがクロックムッシュなるパンだ。ハムとチーズをサンドし、その上にホワイトソースがかかっている。クロックムッシュ、日本語に訳すと「かりっとした紳士」、なんておしゃれなのだろう。フランスでは軽食としてこのパンがよく食べられるそうだ。

 京都の街中でクロックムッシュをほおばる。目の前には町家があってあっちに行けば御所でそっちに行けば鴨川で・・・京都の小路も食べ物ひとつでシャンゼリゼ通りに変わってしまう。

 「食べる」という行為は、本能だ。生物の活動の上での必要なエネルギーを得ることが出来ればそれだけで事足りる。しかし、限られた人生で1日三回以上もお付き合いをする食事なのだ。無味乾燥な食事のために短い人生の大半を充てたくはない。視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚、食事をするのに五感のどれも休ませるわけにはいかないのだ。そして小路をシャンゼリゼ通りに変えてみせる想像力も働かせる。

 食欲の秋、煩悩に負けたものではないだろう。今年の秋は食をめいっぱい楽しもう、そして、生きていることをめいっぱい感じよう。なんだか素敵な秋になりそうだ。

 不思議な先輩に出会った。工学部4回生の方で、光や音データの処理について研究しているという。将来的には、例えば、奥行きや質感を伴った映像情報を保存できる仕組みができれば、文化財保護などに活用されうるらしい。

 そんなご本人が特異な感覚の持ち主で、自己暗示能力が尋常ではない。実際には存在しない光や音情報を脳内で作り出し、それをありありと感じることができるのである。例えば、街角で素人バンドが演奏を繰り広げていて、ドラムが特に調子っぱずれで聞くに堪えないと思ったら、ドラム音だけを脳内で消去し、より正確なリズムを「脳内ドラム」で刻んで合成することによって、かなりましな演奏を自分だけ楽しむことができるのだそうだ。同じ原理で、合唱団の中の気に入った人の声だけを聞いたり、下手な人の声だけを消したりすることはおてのもの。ソロアーティスト同士の架空コラボレーションを脳内で開催することもできる。

 この能力は、その他のあらゆる身体感覚に及ぶ。視覚的な面では、目の前の白いコップに金メッキをかけたり、無地の壁に瞬時に壁画を描いたりできる。アロマテラピー検定1級を持っており、「ベルガモットとラベンダーを混ぜた香り」など、任意の嗅覚情報を鮮明に想起できる。また、眠れない夜は、まず全身が冷たい水に浸ったイメージをすると体がぶるぶる震え、次いで温かい湯に入るイメージをすると全身が一気に緩んで温まり、スムーズに眠りに入れるという。

 彼に言わせると、「自分が持っている程度の能力はたいしたことはない、もっとできる人もいる」のだそうだ。そういう人は、目の前の現象が実際存在するものなのか、自分が想像しているものなのか、その区別もつかなくなるらしい。

 私自身はこのような能力を一切持ち合わせていないので、彼の話を聞いた時には、いささか誇張した話なのではないかと思った。しかし実際そうでもないようだ。感覚の仕組みについては私も興味を持っており、継続的に勉強しているので、この出会いは大変画期的なものである。彼と似たような能力を持っているという人がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいと思う。

 お店の店員は、お客さんの探し物がすぐ見つけることができるように、店に何があり、それが何処にあるのか大体分かってないといけない。しかし目まぐるしく入れ換わる店の品の全てを把握するのは大変なことだ。ちゃんと等しく覚えたくとも、自分の気になるものは覚え、どうでもいいものはすぐ忘れる。
 ある時40代くらいのおっちゃんに漬物の場所を聞かれた。漬物なんて以前は店になかったし見覚えもなかったが、私は大好きなキュウリの醤油漬け、すなわちキュウリのQちゃんが店に入り嬉しく思っていたことを思い出し、それによって無事漬物のある場所に案内できた。

 食欲は、私の仕事に対する真面目さの何倍にもなる力を持っている。どんなものであれ欲はやはりすごい力なんだなと思った。そして、自分はこれを使いこなせてないなとも感じた。振り回されているわけでもないけれど。何かやりたいと思うなら、欲を目的とうまく重ねるのが手っ取り早いのだろう。
 悟りを開くため?「欲を捨てよ」とかいうことを聞くが、欲を捨てたら人間は死んでしまうんじゃなかろうかと思う。悟りを開いたらどんな気分なのかなと思うが、欲がxy座標上の原点からありとあらゆる方向に長短様々に進んでいるベクトルとすれば、悟りは原点からxy平面に垂直にパーンと突きぬけた直線のようなイメージがある。+∞の頂に這い上がれば、-∞のド底辺にも突っ走る。しかし知らん顔というか。そんなのにはあまりなりたくないと思う。
 自分が思わず欲をむき出しにする時がごくたまにあるけれど、それは後から思い出すと何だか笑える。しかし知らん顔していた自分は思い出してもちっとも面白くない。欲が引き出すずぶとい力が、滑稽で、しかし想像以上に逞しいからなのだと思う。

 朝ちょっと遅れて教室に到着すると,先に来ていた友人たちが「お疲れ~」とねぎらってくれました。眠い眼をこすって授業を受け,終わると別の授業に行く友達は「お疲れ」と残して去っていきました。

 昼食時にたまたま別の友達に会いました。これから3,4限が待っていると言うと「おおっ!お疲れ!」と言ってくれました。4限が終わり,これからは部活に行くだけだ,となるとそれまでずっと授業が一緒だった友達は「お疲れ~また明日」と帰っていきました。

 部活をこなすと全体の挨拶で「お疲れさまでした」で〆が入りました。その後同級生とミーティング。面白くも無い話でみんなは「は~疲れた」と言っていました。その後荷物をまとめて帰る際,一回生たちが「お疲れさまです」と声をかけてくれました。三回生以上は「お疲れー。」と言ってました。

 

大学に入ってから「お疲れさまでした」とよく言い,よく言われるようになりました。授業にお疲れ,部活にお疲れ,キャンパス移動にお疲れ,昨日のオールにお疲れ,来週控える試験にお疲れ,寝過ごして急いで来た時もお疲れ。非常によく疲れているものです。これはとことんねぎらっているわけです。疲れに対しての共感です。おはようの代わりにお疲れ。ありがとうの代わりにお疲れ。さよならの代わりにお疲れ。大変やな!の代わりにお疲れ。とにかくねぎらいます。周囲は疲労困憊の様子といえるでしょう。いや,言われてる私もか。

 

ほんとに疲れてる時には何とも奇妙なことを言います。「大丈夫?」と。疲れてるから大丈夫じゃないんです。でも,いいんです。大学生くらいの年齢になると「若くない」ってみんな言います。これから何年生きるつもりか分かりませんが,とにかく若くない身には何にせよねぎらいが要るわけです。ほんとに疲れてるのに対応するのは疲れますから,「大丈夫」なことにしておいて,普段は差しさわりの無い範囲でお互いにねぎらいあいます。要するに四六時中僕たちって疲れてて大変ね,という感じです。深く考えるのは疲れるからやめます。ここまで読んでくれたんですね,お疲れさまでした。

和語において、母音音節(あいうえお)は基本的に語頭にのみ現れる。
母音は最も自然に音声化できる音であり、自然界に常に溢れている。
人間は母音から始めて、世界を切り取ってゆくのだ。


「あ」は「彼」を表し、遠くの方へと言葉を届けるために、口を開き、最も明るく発音される。逆に定義すれば、「あ」の届く範囲が人間の世界として規定されるのである。

「い」はかつて全ての音の頭として威張っていたが、今では主に形容詞の語尾として、人間が外界から受けるあらゆる印象の余韻として響いている。無常観のシンボルである。

「う」は「有」であり、存在の根本的なありかたを表現する。口を狭めて発音するのは、気を凝縮して原書の存在の発生を摸しているのだ。

「え」は意外性の表現。他の母音に比べて発音が中途半端なため、ひねくれていて意外なところで急に顔を出す。母音の中でもはぐれた存在である。

「お」は「え」と同じく中途半端な母音でありながら、「え」と違い社交的である。名詞の前に付けば語調をやわらげるなど、人と人の間の、そして音と音の間の潤滑油のように働いてくれる。

 今日は、朝から腰に纏わりつく倦怠感と腹部に感じるなんとも形容し難い痛みに、私は悩まされていた。昨日はかなり暑かったからと油断して上着を羽織ってこなかったのがいけなかった。ただでさえ状態の宜しくない腰と腹部に、冷えという要素が加わって、かなり苦しい状態だった。

 痛みを訴えるお腹に冷たいものを流し込む気にもなれず、お昼ご飯にはお湯をいれて3分待つだけのレトルト食品と温かい烏龍茶を選んだ。冷えを緩和したくて、買った商品をただ抱えこんでいる風を装って、お腹の辺りにあてる。じんわりと染みる温かさに思わず息を吐いた。キャップを開けて烏龍茶を一口。自分の身体の中心辺りを温かいものが流れていくのがよくわかった。

 移動のバスを待つ間にと、今度は自販機でホットレモンティーを買った。例のごとくお腹の辺りにあてる。一度収まったかに思えた倦怠感と痛みは朝よりも一段とひどくなったようだった。

 ふと鞄の中を見ると、昼に買ったペットボトルの中に烏龍茶が少し残っていた。全部飲んだつもりだったのに…と、喉に流し込めば、予想外の冷たさに驚く羽目になった。温かいものが欲しくなって、今度はレモンティーに口をつけたが、少し冷めてしまったそれは妙に甘ったるくて、もう飲む気はしなかった。


 よせてはかえす波のように、ひいてはぶりかえす痛みと倦怠感。自分の身体に面倒くささを感じながら、体調が悪いと、こうも集中が続かず、考えもまとまらないものかと思う。
 こういう痛みと倦怠感を伴う日があるからこそ、何にもない日々を快適だと、幸せだと感じられるのだろう、と頭をプラスの方向に持っていきながら、明日にはこの痛みと倦怠感を身体が忘れていることを願って、私は家路についたのだった。
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