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夜中帰りのバスに乗り込み席についてほっと一息つくと、何ともなしに外を眺めてしまう。暗くなっても減らない車たちの騒がしいライトや店の電飾がよく映えている。
ふと思いついて、眼鏡を外して裸眼でもう一度外を眺めてみる。すると、先ほどまで一つの点に見えていた光が八つの点に分かれて円状に並んでいる。乱視気味のせいなのかこんなことが起こってしまうのであるが、これが異様な光景なのである。目が悪いので車や店はほとんど見えない。ただ光だけがはっきり見える。しかし光もはっきり見えるといってもその存在がはっきりするだけで、光を発しているものの形はまるで見分けがつかない。眼前に広がるのは、円状に並ぶ色とりどりの小さな点々だけなのである。
その点々は微妙な規則性をもっていきなり消えてしまったり、ゆっくりと点いたりする。クリスマスのイルミネーションのようなうっとりするものではない、ということは強調しておく。むしろ、真っ暗な深海に潜んで光を発するヘンテコな生き物たちのようである。私も深海の住民となって漂いながら、他の生き物を眺めている。私はどんな光を出しているのだろうか。
最近買った電灯を点けて、正面からジッと見る。当然まぶしい。目に光の跡が焼きつく。ここで目を閉じてみると、真っ暗な中で青緑色の光の跡がぼんやり映っている。しかし妙に形が崩れていて、生物の教科書に出てくる微生物のように見える。しかもこいつは瞬きするた
びに移動するのである。目を開けていた一瞬の隙にあらぬ方向に飛んでいる。何とか正面に据えようと何度も瞬きするが、どんどん視界(盲界?)から外れていく。しかしいなくなってしまうわけでもなく、気づけば隅のほうにいる。これも元気なものだ。
目と光は多分普段はありのままの現実をしっかり私に伝えてくれている。しかしたまにはそれに飽きてしまって、ありもしない生き物を頭に映し出して私をびっくりさせるのである。
最近いろいろと読み齧っては散らかしている。一章だけ読んだり,「よりみちパン!セ」のような少ないが濃い部類を読んだり。何かしら集中力が尽きているのかもしれない。そんな今日は中野孝次氏の「清貧の思想」を手にとった。この春から下宿にずーっと置いていたものである。散らかしてないで蓄積を消費しろ,と自分には言い聞かせていたのだが。
そんなわけでまだ読み出したばかりである。よって評など出来ない。だがこの本の大体方向性は察してもらえるのではないだろうか。物欲の時代における日本古来からある「清貧」の考えの再発見,という感じで始まる。ここでちょっとした疑問を思いついた。
何故「清貧」は尊いのか?である。堀口大學氏の詩の一説「晴れた日は散歩をしよう 貧しくば心に富もう」を思い出した。現代でもずいぶんの人が共感なり教訓なりを受け取るのではと思うが,何故物欲に生きることは背徳となり,貧しくも高潔な人は評価されるか。
人間原始の状態を考えてみると,所有こそは力であり,富めることとは最大の徳であったはずである。余剰生産力を手にした瞬間に身分が生まれた,身分の根拠とは蓄積された富である。いや蓄積された富が身分を生んだ。所有したい,富裕になりたい,とは生活のモチベーションとして唯一無双のものであり続けてもおかしくないのではないか。
それにアンチテーゼが生まれた。中野孝次氏も先の本の中で指摘する通り,宗教,身近な例では仏教である。一切の無常,魂と業の関係など,所有即ち富の思想の全くの逆である。その思想が様々に影響を与えてこの日本の伝統とされているものの一部(武士道や処々の家訓…)となっているように感じる。
しかし,根本的にこの発想は今語られている限り「悟った」という発生方法以外のものが出てこない。王室に育ったガウタマ・シッダールタは何故こう悟ることが出来たのだ?単なる逆転の発想なのだろうか。逆転とは死に近い生き方をすることにつながる。信仰の力を過小評価しているわけではない。しかし分からない。「悟った」では解決できない価値観創造の瞬間は宇宙の始まりにも似ている。
サ行は摩擦音であり、息の漏れる音がする。
「し」のみ、摩擦させる位置が奥にずれるが、これは次のi音に移行しやすいためである。
「さ」はさりげない音。サッと早い、小さくて些細でささやかな音。
「し」は静かな音。人差し指を立てて口に当て、声帯を震わさずに出す「し」音は、ホワイトノイズに近く、マスキング効果により沈黙を促す。
「す」は精神を研ぎ澄ました呼吸。日本語の最も基本的な動詞「す」は何かに心を向けて事を為す、人間の行為の根本を表現している。
「せ」は醤油でいいんじゃないですか?
「そ」は「其れ」。最も中性的な代名詞。あらゆる名詞は「そ」で置き換えることが出来る。汎神論の神とは「そ」のようなものかも知れない。
今月1日、国際会館で行われた「源氏物語千年紀記念式典」に縁あって参加した。前半に瀬戸内寂聴さんとドナルド・キーンさんによる記念講演があり、後半は天皇皇后両陛下御臨席のもと、舞楽の披露や、源氏千年紀イメージキャラクター・柴本幸さんによる『「古典の日」宣言』の発表があった。主催者側から京都府知事・京都市長・宇治市長などが、来賓として文部科学大臣などが出席し、さらに総合司会がNHKの武内陶子アナウンサーで、非常な高級感を伴った式典であった。
中でもやはり、天皇の存在感には圧倒的なものがあった。金屏風の前にただ座っているだけで、一言も言葉を発することはなかったが、明らかに天皇の存在によって場の空気は統べられていた。「えらい」というのはこういうことだと思った。例えば総理大臣も「えらい」人には違いないが、民主主義の日本においては、国民は誰でも総理大臣になる可能性を有する。そして、総理大臣のえらさは、我々の下支えがあるからこそ実現しているものである。しかし天皇の場合はそうではない。我々は絶対に天皇になることはできないし、天皇を選んだり罷免したりする手段を有しない。天皇の地位と国民の主権とのつながりは完全に断たれている。我々は天皇を「えらい」と認めたことはないし、なぜ「えらい」のか誰にも分からない。だからこそ天皇は「えらい」のであろう。この種のえらさは神聖なものとしか言いようがなく、そういった神聖性が現代の民主主義国家の中で未だに息づいていることには、違和感と不思議さを覚えざるを得ない。
源氏物語の世界では、天皇は今よりもはるかに生々しい。桐壺帝は身分の低い桐壺更衣を寵愛し、その結果光源氏が生まれる。冷泉帝は桐壺帝の皇子ということになっているが、実は源氏と藤壺の間にできた不義の子であり、物語は複雑化する。天皇は、取り巻きの皇族・貴族たちと分け隔てなく、スキャンダルの渦中にあってしかるべき存在なのである。
今言う悪魔とは、絶妙なタイミングでそっと手をさしのべることで、どんな状況にある者でもその者にとって最悪な状況に貶めてしまう悪戯をする存在のことである。例えば、失敗をしでかしたが、次を頑張ろうと思い直し始めた瞬間に、自分がまた失敗をしていることに気付いて、一層へこんでしまう。こんなことがあると、最早自分のせいでなく別の力が働いていると思いたくもなる。
かのキリストは修行中に自らのもとを訪れ、様々に誘惑し彼の神に対する愛を崩壊させようとした3匹の悪魔を、その不屈の精神力をもって見事に退けたという。私も悪魔を退けるために強い精神を持たねばならないのだろうが、キリストのようにいくはずもなく、悪魔に為されるがままとなっている。
ところで私の中では神は創造主であり、悪魔が最強の悪戯っ子のようなものであるのだが、この2者の対照的なところは人間に対する関心である。神は人間を造ったが、それから後はほったらかしである。一方悪魔は人間の心に積極的に関わり、かき乱そうとしている。悪魔は我々に興味津々なのである。かのマザー・テレサは無関心こそが最も悲しいことだと仰った。我々はもしかすると永遠に神の愛を受ける
ことはできないのかもしれない。しかし我々に関心のある悪魔は、もしかするといつか我々を愛してくれるのかもしれない。そうすれば、神様なんかよりずっと心強い味方となるのではないだろうか。悪魔だけに信用しきれないものだが。
そんなことを思って、悪魔からの善意を期待する日々を送っている。
今日,弁当を拾いました。というと一体どういうカミングアウトかと思われそうですが。筆者を実際知る方々は深い○○を覚えることでしょう(任意)。
本当です。今冷蔵庫に眠っています。夕方,コンビニの横に,それは丁寧に置かれていたのでした。消費期限は前日午前二時。うわ,だいぶ過ぎてます。表示価格より50円引きシールも貼られていました。全うな感覚をお持ちの方々からしたら,まず手を出さないであろうこの物件。しかし筆者はそれをついつい手に取り,かばんに押し込んでしまったのでした。
どれほど放置されていたものか不明です。当然,傷んでるかもしれません。いや傷んでるでしょう。食べてコレラにでもかかろうものなら一大事でございます。
でもビニールがぴったりと包装し,鮭も玉子もつやつやと輝いておりました。しかも松茸ご飯です。下宿生の身でそう口に入るものではありません。
さらに,筆者は洗濯機の裏から出てきたジャガイモや,割と酸っぱくなった肉じゃがや,青い点の見える南瓜,毛の生えた粒が横に見られる米など,ある程度おぞましい食品をこの一年間で食す機会がありました。柔らかくなった人参や変色したレタスなど文字通り日常茶飯事。そういうものを食べながらこの一年大した病気もしておりません。丈夫なものです。いや元来からポテンシャルはあったはずです。以前こんな食生活してませんし。
食品の汚染が問題になっています。そういうときに弁当拾うなど。お前は汚染水使った加工品を食うのか,汚染米食うのか,といわれるかもしれませんね。そういうところは無頓着か,世の中が潔癖なのか,と。いえ,そういう食品は丁重に辞退いたします。それはどこか企業の(意図的かもしれない)ミスの結果ですから。少なくとも筆者の一年間のおぞまし体験や,置いてあった弁当は“時間が経った”以外,問題ないはずです。いや,分からんのですが,それは現在世に出回っている食品にもしかしたらある問題点が分からないのと同じレベルだと思います。
結局のところ自分が信頼できる範囲で食べていかないといけないはずです。言われたから信頼しない,言われなければ気にしない状態。そんな状態で世間は「食育」と言ってるわけです。同時にちょっと期限が切れると大量に廃棄する世間もみんな分かって暮らしているわけです。それを考えたらここにある期限切れの弁当は,このまま捨ててしまうしか選択肢が無いものだろうか,というわけです。
当然体調が悪くなったら自分がアホってことです。もちろん誰かが食べる予定だったのかもしれない,という視点もあるんですが。とりあえず松茸ご飯の誘惑も捨てがたいという意地汚さから全ては始まったのでした。
「か」は最も強い口の閉鎖から最も明るい母音へと推移する、爆発力の強い一音である。「カッとなる」或いは「火」の音読みに見られるように、強いエネルギーの発動を表象する。
「き」は「奇」であり「危」であり「鬼」でもあり、何か人間に不安を催させる音である。木の戸が「キキキ…」と軋む音。「気」として感じられる得体の知れない恐怖。
「く」は「苦」。「句」となって現れる人間から自然界への微かな抵抗としての呟き。
「け」は「怪」「異」「仮」と人間の認識の及ばない範囲を示すが、「き」よりもいくぶん中立的である。唐突に一本だけ生えた「毛」のような意味の無さ。
「こ」は「此」方へ「来」いと呼ぶ音。「あ」とは対照的に、小声で呼び合う者たちだけの親密な音である。