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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 新年明けましておめでとうございます。しかし孝太郎さんも敢えて三箇日をお休みになるとは、これまた粋なことをなさいますなあ。おかげで新年一発目の大役を任されてしまった私は若干の重圧のようなものを感じているわけですが。
 孝太郎さんは案外ポップなところもありますが、基本的には硬派なので、昨今のお正月にはお正月らしさが足りないぞとお嘆きになっての、今回のお休みだったのだと思います。あ、勿論これは僕から見た孝太郎さんの解釈ですよ。本当の意図なんてものは孝太郎さんにしか分からないのです。
 そう、例えば街に繰り出すと、百貨店ではバーゲン、それをめがけて車は走る、これもなんとなく賑やかでお正月っぽい風情はありますが、私の正月の観念では、商店街の八百屋さん魚屋さん床屋さんみーんな休みで、街は閑散、森閑。家の中だけが親族集まってほっかほか、暮れに作ったおせち料理と雑煮でお腹は満たして家事もお休み。そういう感じがお正月だと思っているのです。
 最近は家の中にいても世界中と繋がれるようになってしまったので、想像しづらくなっていますが、年賀状でしか外と繋がれないお正月の、いいようのない退屈さというのも年に一度ぐらいなら良かったものだなぁと思っています。
 何だかまとまりませんね。今年も一年、「ああでもなくこうでもなく」の文章を書いていきたいと思います。宜しくお付き合いの程お願いいたします。
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新年あけましておめでとうございます。
デイリー孝太郎、2008年の第1回は1月4日となっております。
本年もよろしくお願いいたします。
読者の方からの投稿もまたお待ちしております。
よい一年をお過ごし下さい。

みなさんこんばんは☆とうとう今年も今日で最後ですね・・・なんだかやり残したことが山積みで、山積みで、山積みで。。。よし!来年は頑張ろう!!

今日は大晦日ということで、八坂神社に行ってきました。をけら参りです。ベビーカステラもばっちり購入です。
をけら参りとは、火縄にをけら火を付け持って帰り、その火を新年の火種にする、というものです。
毎年の恒例行事だったので、全国共通だと思っていたら京都独自の行事でした!全然知りませんでした!!
人は当たり前にやっていることを一般化する傾向があるのでしょうか?
方言とかも他の人に指摘されないとわからないものです。
そもそも一般とか標準ってなんやねんって感じですが、意外と人の視野は狭かったり、思い込みは激しかったりします。
来年は食わず嫌いなものでも克服しようかしら・・・なんて考えつつ今年も残りわずか。
「歳月人不待」
では来年も孝太郎をどうぞよろしくお願いします!よいお年を!!

今日レコード大賞が発表されて、明日は紅白歌合戦がある。
年末恒例のテレビ番組である。
毎年、いや、見なかった年もあるが、テレビの前に座りながら、あぁ、こんな歌もあったなぁと一年を振り返る。
レコード大賞だと過去の受賞者の当時の映像をながしたり、紅白だったら二、三十年前に世に出た歌がまた歌われたりして、私など覚えていないのに懐かしい気分になったりする。
昔の歌(自分にとってだいぶ前にきいていた歌)が流れたときの一種途惑いに似た感情(感傷?)は、その歌が当時の自分をよみがえらせるからなのかもしれない。
同時に、昔の映像というのは、いまや「オバサン」「ジジイ」と化した(口が悪くてごめんなさい)歌手たちの、フレッシュな姿が見られるという意味でも、私たちに何かよくわからないものを与える。
あの人もこんな人だったのか、とか、あの人こんなことしてたのか、とか。それだけではなくて。
なんにせよ、歌はいいものだなと感じる。
私も未熟で、なんとなく好きになって楽しくテキトーに歌ったりとか(別にそれはそれで悪くないと思うが)、歌詞の意味すら深く考えずにいた。まして歌手がどんな思いでその歌を歌っているか、何を伝えたいのかなど、ろくに考えたことなかった気がする。
最近だと思うが、少しずつ、ちゃんと歌を聴くようになった。今までとは違った聴き方を私はするようになった。
だから何なのかって?
それは私にもよくわからない。
けど、歌をきくと、なんだかいろいろあったまってくる気がするんだ。

天気予報をみると、元旦を目前にして、どうやらやっと雪がふるらしい。
雪よりはやく、私の心の中では、来年への希望がつもっている。

 義手を用いたヴァイオリンの演奏に成功したというニュースがありました。筋肉のかすかな電流をセンサーで検知して、モーターを用いて3本の指が閉じたり開いたりする筋電義手というものを使って7歳と9歳の方がヴィヴァルディの協奏曲を演奏した、ということです。

 

再生医療やその義手の詳細は詳しくはありませんが、二つの方向で考えるものがありました。一つは技術進歩により生活を向上させることが可能になっていること、もう一つはハンディキャップと芸術についてです。

 

一つ目。生体移植などは特にセンセーショナルに取り上げられるので有名かとは思いますが、医療の技術向上にはめざましいものがありますね。臓器を細胞培養によって作るもの、治療の届かなかった領域の改善など…。最近も再生医療について論がにぎわいました。ただ、「日本が先駆者となるべきだ」という形の考え方で医療技術を向上させたりするのもどうかと思ったりします。そして、「最大多数の最大幸福」の考え方になってしまいますが、臓器移植一回の医療費と技術で、ごく基本的環境が整備されていない人たちの生活に少しでも貢献できないものかなと思ったりもします。

 

さて二つ目。ハンディのある人々が芸術で功績をあげることを聞く機会は多いですね。これは補助器具を使って達成したパターンですが、先日左手のみのサクソフォン奏者のことを耳にしました。そして調べてみると障碍のある人々でのジャズバンドがあるなど、案外広く活動がなされていることも分かりました。

 

もちろん、大いに歓迎されるものです。ですが「障碍があるのによく出来ましたね」という目線から自由になって評価されるのには長くかかるだろうなと思ったりします。先んじて、芸術分野で脚光を浴びるというのは、逆にそういった「非生産的な」分野でしか彼らに目線が向けられないというところもあるのではないでしょうか。活動の場自体が、ハンディ以上に制限されているのではないでしょうか。

 

ありがちな論かもしれませんが。「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」などという言葉は教科書にも載って一応は広く浸透したことになっています。ですが実質が変化しなければ全く解決にはならないわけで。パンフレット作ることや、スロープ作ることが福祉の本質ではありませんから。

 

喜ばしい話題で締めようと思ったら案外深刻になってしまいましたね。まあ、来年には期待を寄せようというわけで(強引だな…)。では、よいお年を。

 我が家のこたつの上にいま、奇妙なオブジェが乗っている。
 シャーレ様の容器に液体が入っていて、その中央に茶色い紙が、木の幹を摸して突っ立っている。この幹がシャーレの中の液体を毛細管現象で以て吸い上げて、その枝えだにまで染み渡らせると、液体が緑色に結晶し、いかにもクリスマスツリーのように見える、といった趣向だ。
 しかし…何だ。クリスマスを三日過ぎ、このツリーも何だか所帯じみた有様に変貌してしまっている。幹に吸われなかった液体はそのままシャーレの中で結晶して、ブロッコリーのよう。そう思うと、もう木全体がブロッコリーの木に見えてくる。飾り付けのラメのパウダーも香辛料のように光ってむなしい。てっぺんのお星様もブロッコリーに侵蝕されて傾き始めた。
 そもそも、こういった「部屋に置いたらお洒落だろうな」と思って買うような物は大体部屋の雰囲気に調和しないものだ。我が家のクリスマスツリーも、朝食の漬け物の残り、醤油差し、急須、といった日常感溢れるグッズに囲まれて、異様な雰囲気を放っている。しかしながら、これは日本の異国文化の積極的な受容(正月の一週間前にわざわざクリスマスをやる、といった類の)を象徴しているようでもあって、これはこれで悪くもないなと思うのである。

あと数日で2007年も終わる。このように、デイリー孝太郎で毎週文章を書かせてもらうようになったのが8月だから、それからもう4ヶ月以上経っているのだ。そう思うと、書き始めた頃のことが随分前の懐かしいことのような、つい先日のことだったような妙な気がする。

当初は軽い気持ちで引き受けてしまったが、文章を書く習慣というものがなかった私には、毎週文章を書くというのは思っていた以上に大変だった。なかなか思うように筆が進まないときは、単純に書くネタが思い当たらないというのもあったが、それ以前に自分の中が言葉で整理されていないことが原因であったように思う。上手く書けないが、文章にするだけの準備が自分の中でできていない感覚とでもいおうか。文章を書くためには、自分の中の「何か」を言葉に当てはめるという作業が、私には必要だったのである。

毎週文章を書いていくうちに、自分の中の「何か」を言葉に当てはめる作業は無意識のうちに習慣化したように思うが、ときに、私は自分の中に湧き上がる「何か」を言葉に当てはめることに物凄い抵抗を感じることがあった。言葉でその「何か」を表現するのは漠然と間違っているような、もし言葉で表現すれば自分が後悔するような、そんな気がするのだ。このようなとき、言葉も表現方法の一つに過ぎないのだな、と思う。言葉というのは我々にとって非常に身近な存在であるから、自分の中の「何か」を言葉で表現することは多い。けれど、きっと人にはそれぞれ、自分にぴったりの表現方法があって、音楽家なら「何か」を曲で表現するだろうし、画家なら絵にそれを表現するだろうと思うのだ。また、同じ人でも、その時々でぴったりの表現方法というのは異なり、状況に応じて自分の中で、これしかない、という表現方法を選択して「何か」を表現しているのではないだろうか。

自分にとって最適な表現方法が、果たして言葉なのか、そうでないのかは、自分にもまだよくわからない。けれど、そのとき自分が言葉に当てはめることのできる「何か」は、来年も、このデイリー孝太郎で文章として表現していきたいと思っている。

 

それでは今年はこのへんで。よいお年を。

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