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はやいもので、もう3月になった。
きっとこの3月もあっという間に「去って」いってしまうに違いない。
といっても実際は1月から2月のはじめまではいろいろなことがあって、たぶんそのせいでずいぶん時間が経ったようにも感じている。でもちょうど一年前の日のことを思い出すと、あの日からもう一年も経ったのか、あっという間だったな、と思う。不思議。
ちなみに、3月になったってことを意識したのは今日外にでた時のことだった。ドアをあけて、なんか違ったにおいがするなと思ったので、なんだろうと考えて、そうか今日から3月か、と。
さて、話は変わるが、がらっと変わるが、
「私はAが嫌い」
とBさんが主張したとする。
Aに入るのは、セロリとか、赤いズボンとか、そういうのではなくて、ある考え方とか、あるコミュニティに存在している制度とか仕組みとか偏見やなんかであるとする。「~な人」とかでもいいと思う(うまく例があげられてない…)。Bに入るのは…特に限定しない。
で、このとき、BさんはAのことを嫌いだと言っているわけだけれども、
これが意味するところを考えてみると、BさんはAにまったく無関係な状況にない、
たとえば「Aが重んじられる社会C」に対して、Bさんが「そんなの嫌いだ!」というとき、BさんはCの一員である、それかCは強い関わりをもっているんじゃないか、という感じ。
嫌いと言っていながら、自分はそれにかかわっていて、自分の中でうまく対処ができていない、そういう「嫌い」があると思う。
で、そういう嫌い!はその現状から脱却したい(あるいはそれをどうにか変えたい)思いのあらわれな訳である。
で、それで“いまはまだ脱却できていない”のである。
当然、「いまそれと関わらざるを得ないことを頭のどこかでわかっている」。
BさんがAは嫌いだ、というとき、(そうやってけなすことで、)私はAとは無関係だ、私はAなんかじゃないんだ、ということがそれに含まれているように思われるし、それはなんとなく傍にいて良くきこえない。嫌いといって切り捨てることで何か失ってしまうのではないか、なんて思いもあいまって、私には、「嫌い」ということを嫌っていたところがある。というより、好きなもの、ことならたくさんあるけど、嫌いなものってあまり思いつかないな、というおめでたいやつであった。春っぽい。(春に失礼?)
むりやりとしか言いようのない(春への)着陸の仕方をしてしまったが、
この春的態度(?)は、一見楽しそうではあるが、裏を返せば、Bさんの嫌いは、改革志向的とでも言うもので、自分はこのようなエネルギーをどこかへやってしまって、浮かれているということかもしれないな、と思う。
5月病とは案外、このエネルギー不足によって起こっているのかもしれないぞ。
一生に一度,自分の集大成として本を出版したいと願う人が案外多いようです。それが小説であったり評論であったり,文字通り自叙伝であったりとその中身はさまざまですが,とにかく本を書くということが何か記念碑的に捉えられています。
成程,そう考えると自分も薄っぺらいものでも書いてみたくなります。若干。タイトルは「人間失格」とでもしましょうか。うそです。何か自分が生きた証を残したいと願う人は多いですが,だからといってみんなが銅像を立てたりできるわけではない,そんな中で名前が残り,自分が反映されたものとして手っ取り早くお手軽なのが本,と言うわけでしょう。
結構面白いと思いますが,いつ書いたら満足なものができるのでしょうね。人生の集大成としたいなら遺言と並行するべきでしょうか。小説にしても,評論にしても,自分の思想が一冊に固められてしまうのを見るのは案外怖いことと感じます。一部の本にあるような独りよがりの言いっぱなしになってしまわない本を,最初で最後の機会に。うん,難しい。
退職したあたりで始めてみるのも面白いかもしれないですね。かなりの確率で仕事で学んだことや処世術,後身への説教になりますが。いや,退職寸前のほうが職場で話題になるでしょうか,それとも二,三十代で書いて後々見返していくか,思い切って大学生くらいのうちにこっそり書き溜めておこうか…
考えていくうちにいつ本を書いてもそれなりに面白い,という簡単な結論に至りました。何にせよ内容が無ければ古紙同然になるゆえ,それが書けたら逆にいつでも面白いわけです。ものを書くことは人生の集大成にするにはちょっと勿体無いかもしれないですね。いつでも面白いのに。
ところで手元の漢字源で「閏」という字を調べてみますと、「解字:介意。『門+王』で、暦からはみ出た日には、王が門の中にとじこもって政務をとらないことをあらわす。定数からはみ出る。不正規なものの意を含む。」とありまして、はあはあなるほど。私がアルバイトをしている仕事先では、1ヶ月を4週間と割り切っていて(?)、5週目になった日には、通常の業務と違う、やり残した仕事をやるという感じなのですが、閏ってそういう感覚に近いんだなと思いました。元もと無かったもの。余計なもの。という。
暦の重要な機能というのがここにあらわれていて、時間というものはある意味一直線に流れてゆくものとして捉えられるものなのに、人間はその中に周期性を見出して、一ヶ月や一週間を単位として認識してしまっているので、閏の2月29日は(時間としての性質は他の日と同じであるにもかかわらず)余計なものとなってしまうわけです。
私は余計なものが好きなので、普段通りの仕事はできるだけ昨日までに終えて、何の予定もない余計な一日を送りたかったのですが、いつものようにアルバイトが入ってしまいました。あなたはこの"4年に一度の日"をどのように過ごすのでしょうか。
バスは、その後も雪景色の山村の中を走り続け、数十センチはあろうかと思われる積雪を見るのが初めてだった私は、その間ずっと外の景色を見ていたのだが、途中で、山村の中には意外と雪だるまやかまくらなど、雪遊びをした形跡がないことに気づいた。不思議だった。地元であれば、雪が降ろうものなら、子供たちが大喜びして、雪が白く一面に広がっているところを見つけては、我先にと自分の足跡をつけに走り回るだろうし、斜面ではそり遊び、雪が沢山ありそうなら雪だるまもつくるだろうに。
私などにとって、積雪はめったにない珍しいもので、どこかわくわくするものだ。けれど、毎日のように雪が降り、しかも数十センチもの積雪になってくると、雪に対するイメージも変わってくるのだろうか。当たり前のことになると逆にそこまで興味がなくなるのだろうか。それとも、もしかしたら、その山村にはあまり子供がいなかったのか。様々な考えが頭に浮かんでは消えていった。
寒暖の差が激しいと風邪もひきやすくなるので、みなさんお気をつけください!
最近はバイトと遊びにふけってしまい、感受性の衰えを感じます。孝太郎に書く文章も頭に浮かばない日々です・・・。しかし、悪くとらえず、春の陽気ととってしばらく休みを満喫しようかなと思います。みなさんも春うららかにお過ごしください。
ストランヴィンスキーという作曲家の「火の鳥」という曲があって(バレエ組曲ですが)、僕はそれが好きで、いつかあれのCDがほしいな、と長いこと思ってきたんですが、1000円ちょっとの割と手ごろなものではあったけれどもなかなか手が出せず、「在庫処分のため15%引」となってやっと今日、ええい買っちまえ!と手を出しました。(バーンスタイン指揮:春の祭典/火の鳥(1919年版))
「春の祭典」の方は、これも前から何度か聞いたことはありましたが、まったく理解できていなくて、だいぶ久し振りにちゃんときいて、こんな曲だったのか!面白いやん!と、思いましたね。
認識を改めるというと、こんなこともありました。
実は火の鳥はN響アワーという番組でやっていたのを録画してあって、今まではそっちを見て聞いていて、しかもそれがストラヴィンスキー自身の指揮(1945年版)だったり、1919年版の映像も見れたりとなかなかお気に入りのものなんですが、というか多分これを見て好きになったんだったと思いますが、これを今回また引っ張り出してみてみたわけなんですね。
はじめは、バーンスタインのCDを買って、ワクワクしながら帰って、それから何度かきいて、やっぱりすごいな!なんて思ってて、その後、そうだあのビデオのと聴き比べてみよう、となった。で、ビデオにとってあったのをきいて(すなわち同じ曲だが3種類聴いたことになる)、これがやはり違うもので、いろいろ感じて、なんとなく満足感を得つつ、自分はバーンスタインのが好きだな、と思って、CDをかけてみたら不意打ちをくらった。さっき聞いてたバーンスタインのと違う音楽が聞こえてきたんです。3タイプ順番に聞いていったら、自分の中で(まったく同じ演奏なのに)火の鳥を姿が変わってみえた、と。
だから何なの、と言われると、まだ僕にはよくわからないけれど、なんかいろんなことを含んだ体験ではないかな、と思うんですよ。ね。音楽という範囲で考えるなら、録音とライブとの相違に関する問題に通じそうでもあるし。何か教訓めいたこともこれから言えそうではないですか。まぁでもそんなこと考えるのも、野暮というか、あまり良いとは思わないですが。
2月のことを「光の春」と形容することがあると,先日天声人語で読みました。とても興味を惹かれたので,ちょっと書いてみます。光の春。冬の寒さ厳しい2月,風は冷たく雪に閉ざされる,そんな中で光だけは暖かさを増し,そして日もだんだんと長くなる。そんな様子を表しているのでしょう。
命にあふれた春という季節を,光の視座から捉えたこの表現,美しいです。命煌く,などのように輝きをもって語られるのは一般にも見られますが,それが季節の次元にまでくると面白い。命あふれる春。桜は咲き,虫は活動をはじめ,若草色の風が吹く。月並み。
でも春が命にあふれるなどと言われるのはそういった月並み描写から来たものではないように感じました。火の鳥伝説のような未来永劫繰り返される命,輪廻転生,まわり続ける命,それをバックに持つからこそ春は命にあふれると感じました。命は予断無く繰り返されているわけで,でも普段実感しない。そんな中,春になると常緑の,常に形の変わらない山々のような情景に霞がかかり,はかない桜が咲き,小さい虫たちが這い出る。そしてそれ以前に光は,弱くなった冬を乗り切って再び力を増し,それを人々は無意識に感じているわけです。それらが2月からだんだんと行われ,意識的には3月4月になってようやく春を感じる,という感じです。
命を語ると宗教じみて嫌ですね。でも光の春ということばからは何かそういった心象スケッチが見えてくるような気がします。