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卒業・入学・進級・就職・・・夏秋冬と一巡りして迎える春というのは何か特別なものがある。
私も昨日は大学の合格発表の日だった。たとえば私がそうしたように、ちょうど去年の今を思い出したり、今まで歩いてきた道を振り返ったりと、多くの人はそうするのかもしれない。
秋のある日この文芸誌にお礼と別れを告げて以来しばらく、きっといろんな人がこのサイトを訪れそうしてまたこのデイリー孝太郎に私の知らない(知っているかもしれない)人々が素敵な文章を綴ってくれた。その期間はまるで私の中の空洞のようでもあったし、一方で私を形作る根源的なもののようでもあった。時が流れているのか私が年代記の中を歩んでいるのか時が一定の尺度なのか、そんなことは分からないけれど、一巡を終えたこの春に時を経るという一種の無常を感じている。そしてまたこうやってデイリー孝太郎の原稿を前にしてつらつらと、時にはうんうんと唸りながら筆を進める喜びを噛み締めている。
春というのは秋の切なさや冬の寂しさをも超えた、あるいはそれらひっくるめたノスタルジックな季節なのだろう。出会いと別れ、生と死、暖と寒・・・マーブル模様に混ざり合う対極が織りなす春の色にはいつも胸を締め付けられる思いがする。きっとこんな時、「よし、頑張るぞ。」と思えば春風は背中を押してくれてしゃんとさせてくれるし、「ありがとう、楽しかったよ。」と思えばほのかな花の香りが涙を誘ってくれる。「何でもいいんだよ。」と私の肩の荷をそっと降ろしてくれる春さんはなんとも不思議な御仁だ。
本当は今日の記事は優しさについて書くつもりだったのだが、気付けば春さんに流されていた。まぁ、それもいい。
この間、私は友人たちと人生について考え、朝まで大いに盛り上がった。と言えばなんだかかっこよく聞こえるが、ただ単に人生ゲームを楽しんだだけである。結婚したり家が燃えたり株が暴落したり・・・。ちなみに私はあのくるくる回すやつが上手く回せなくて皆に怒られました。
ということで、結局まだ早寝早起きの規則正しい生活は実行されていません。再び反省。
みなさんも徹夜の経験は一度や二度あると思います。時間も気にせず遊んだり、時間に追われて作業したり。
夜といえば、夜更かしをしていたらおばけに連れ去られてしまうという絵本を思い出します。真っ黒な下地に貼り絵で夜の動物やおばけ、子供が登場します。夜起きているものは悪いものばかりで、最後には夜更かしをしていた子供をおばけが連れ去って終わります。
改めて考えるとかなり怖い話です。夜更かしはいけないことだと教えるために、おばけに対する恐怖心を利用する。
この絵本は、夜更かしはいけないことだ!と頭ごなしに言うのではなく、子供に夜更かしはいけないことなんだと理解させようとしています。
このご時世、子供を叩いて言うことを聞かせるのであれば、一緒に絵本を読んでわからせるほうがよっぽどスマートな方法だと感じますね。
子供を育てるのは、様々なことを通して得られる知識だけではなく、知識からの自由な想像力なのかもしれません。
みなさんも夜を徹する時は、おばけなんていう存在を想像してみてはいかがでしょうか?
「ねないこ だれだ」
作・絵 せな けいこ
福音館書店
3月9日です。レミオロメンの歌に「3月9日」ってのがありますよね。いや、別に僕は歌わないですけど。
それにしてもどうして3月9日なのか?と思って調べてみると、なんでもレミオロメンのメンバーの共通の友人の結婚記念日なんだそうな。
何かもっと深い意味がある日付なのだろうと考えていたので少し拍子抜けしましたが、友人記念日のために歌つくるってのはなかなかいい話ですね。
しかし、それを知るまでは、3月9日はなんの日だろう? 季節の変わり目か? とか、合格発表とか卒業式とかか? なんていろいろ考えてしまって、結局、どれも違いそうである、たぶん作った人にとって特別な日なのだろうけど、でももしかしたらあえて「なんでもない」日にしてあるのかもしれない、くらいに思った私は、すぐさまディズニー映画「不思議の国のアリス」の中でいかれ帽子屋たちが「なーんでもない日ばんざい!」と「unbirthday(生まれなかった日)」を祝って歌っていたのを思い出した。(わからない人、ごめんなさい)。
レミオロメンのメンバー周辺では3月9日は上のように特別な日だけど、私にとっちゃあなんでもない日なんです。だけれども、そんな歌があって、何の日かな?とか考えているうちに、あまりなんでもないこともないような、そんな気がしてきた。
ちょっと好奇心から「マックスウェルの悪魔」について最近考えていました。物理学的に,あらゆるもののエントロピーは増大する。水に落としたインクは例外なく拡散して均一になろうとする。分子は確率が最も高い形になろうとし,それゆえアトランダムな形になる。分子が矢印のような形だとしたら,一方向を全部が向く確率は場合の数も一通りくらいになるが,それに反する矢印が増えるほどその場合の数も多くなり,結果矢印を自由にさせておくと全部があらゆる方向を向くことになる,そんな感じの事柄を見つけました。
これは同時に人間社会にも当てはめようとできるようで。意見を話してもみんなが自分の考えと同じように考えてくれる確率は経験的に低いと分かっていますが,これも「全員の意見が同じ」状態はエントロピーが低いということになります。
そこでマックスウェルの悪魔。悪魔に力はありません。悪魔がいるところに窓のようなものを想定し,分子が移動する時,特定のものが来た時だけ通し,あとはシャットアウトする,それができるだけの存在です。これがいたらエントロピーを減少させる事象が可能になるわけです。インク分子だけ通せば水とインクを分離できたり,温度の高い(運動量の多い)分子だけ通せばお湯を水と熱湯に分離できたり。一応,仮定の産物ですが,この存在について考えていくことはある物理学者曰く「救世主となりうる」そうです。よく分からなかったので私はこれ以上このことは触れません。
「話しても分かる人と分からない人がいる」っていうのは世の常套句です。全員の納得を求めようとしても,母数が増えるほど難しくなります。もしマックスウェルの悪魔がひょんな調子で働いたなら,突如として意見が一方向に揃う,ってこともあり得ますが,「真理」とある人が考える,多数の人が考えるものでさえ揃わない。不思議です。
それでも,小集団においても,諦めない人は諦めず言葉を発しています。世の常と考えてもっと効率のいい手段をとる人もいます。どちらがいいとは判断しませんが,エントロピーの少ない自然状態に負けておれず,悪魔まで生み出して,一致を求めること,平和など切実に願う人などはとくにそうあるというところに人間臭さというか,はかなく強い熱情というかを感じています。
バスに乗り込むとまず整理券を取る。そこには「3」だの「8」だのといった数字が書かれていて、降りる際にバス内前方の電光掲示板(?)に書いてある番号と自分が持っている整理券の番号とを照合すると自分の払うべき運賃が分かるというシステムである。これはつまり、長い区間を移動するというのはより大変な労苦であるから、その代わりに走ってやってるサービスの代償はそれだけ高くつくんだぜ、という論理で、乗車距離と運賃に或る程度の比例性を持たせてあるわけだ。
その比例の論理には何の異論もないのだが、私の危惧するところでは、この整理券システムでは恐らくズルができてしまう。つまり、運転手も余程車内が空いているときを除けば、それぞれの乗客がどの停留所で乗ってきたかを覚えられないので、実際自分が乗ってきた区間のそれよりも安い運賃を払って降りていっても運転手は気付かないだろう。恐らく。
ところが運転手の記憶力が良かった場合。
「ちょっとちょっと、お客さん何処から乗られました?」
「え?あ……あっ、す、すいません」
「だめですよ、ちゃんと乗った分払ってもらわないと。どうしてこんなことするんです。」
「だって私以外の人が全員ズルをしていて、私だけが馬鹿正直に正規の運賃を払っているとしたら、何とも阿呆らしいお話ではありませんか。私は私の正義を確かめるために、敢えて一度だけズルをしてみることで、運転手さんが気付くかどうか試したのです。」
このダイアログは勿論私の妄想であるが、ズルができるかもしれないというのは、誰の脳裏にも少しはよぎる想念だろう。この場合、私をズルへ向かわせたのは、私の猜疑心。そして私の猜疑心とは規則を疑う心である。古代中国、荀子の思想では、人間は生まれながらにして悪であるから法でもってこれを規制すべきである、ということになっていた。ところが、法なるものは破ることを我々に誘惑するような性質をどこかに持っている気がするのである。
追いコンは、ホールで皆が思い思いの発表を行った後、食事会という流れで、その食事会では、卒団する四回生一人ひとりが部員に向けてメッセージを残すという時間が設けられていた。
どの先輩も、四年間、活動してきたからこそ見えること、言えることについて話をしてくれ、言葉の一つ一つが胸に響き、その言葉から、これから三年間、自分が部活でどのように活動していきたいのか、どう活動していくべきか――様々なことを考えさせられた。
そんな数々の言葉の中でも、特に心に残ったものがあった。
『人に厳しくするのときつく(対応)するのは違う』
当たり前といえば、当たり前のことである。けれど、その当たり前のことを言葉にできるのは、その人が実感を伴った経験をしてきたからで、そういう人が発する言葉だからこそ、はっと何かに気づかされた気がした。
厳しいことと、きついこと。両者の間にある違いとはなんであろうか。私は、そこに、接する相手に対する思いやりの気持ちがあるかどうかではないかと思った。
音楽に対する姿勢も考え方もそれぞれ異なる人間が集まって、一つの音楽をつくるというのは、とても困難なことだ。ときにはお互い「厳しく」接しあわなければならないこともあると思う。そこで、その厳しさの根底に、相手への思いやりの気持ちがあるかどうかが重要で、もしその気持ちあれば、厳しさは相手へ真っ直ぐ届き、より良い音楽をつくっていくことに繋がるだろう。だが、逆にその気持ちがなければ、厳しさは厳しさとして相手に受け取られず、お互い良い音楽をつくろうと思っていたとしても、決して良い方へは向かわないのではないだろうか。
「厳しさ」と、「きつさ」の間には、確かに違いがある。けれど、「厳しさ」は自分次第で容易く「きつさ」に姿に変えてしまうだろうとも思う。人に厳しく、というのはきっと自分が思うよりもずっと難しいのかもしれない。
相手に対して、本当の意味で「厳しく」することのできる人でありたい、と思った。
朝ご飯を食べずに学校に来る子のために学校で朝食を出すということがあるそうです。そんな時代に朝ご飯タイムを睡眠時間にしてしまっている私。・・・反省。
しかしながら、学校は家庭とは違った社会を学び、社会化を促進する場でもあります。そのような場で、家庭の役割である朝ご飯まで提供してよいのでしょうか?社会に適応していく力をつけるため、子どもたちは親のいない学校という場で成長していきます。学校が親の役割を担う必要は無いと思うのです。朝食をとるという習慣を、朝読書のように安易に行わないほうがよい気がします。もしかしたら子どもたちの社会化に悪い影響が出るかもしれません。
目の前でこけた子にすぐ手を差し伸べることは簡単です。しかし、すぐ手を差し伸べることでその子は起き上がる方法を学ぶことが出来なくなってしまったかもしれません。もっと先を見据えた取り組みが必要だと感じます。
そんなことを感じつつも、早起きして朝ご飯食べないとなぁと生活リズムの改善を行おうと思います!しかし、春眠は暁を覚えず。来週をお楽しみに。