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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 私は夕焼けが好きで,心惹かれる姿になっていると空にただぼー…っと見入ることがしばしばあります。心に残っている夕焼けは中学3年と高校2年のアレだなあ,とか,ここは自分としては夕焼けの名所だなあ,とか勝手に考えています。そういえば高校のアトリウムもきれいだったなあ。

 

 時折見られる「これは滅多にお目にかかれないぞ」というような焼け具合になっていたときは(何か違うものの話のような表記…),ご時勢ながら,携帯を取り出して残そうとしてしまいます。場所なんか気にして高台に登ったり,急に携帯を歩いている時に構えだして通行人がそのレンズと同じ方向を気にしたりと,いろんなことを構わず撮影しています。

 

 しかし,お気づきかと思いますが携帯のカメラというものは,いやデジタルカメラは特に全般に夕焼けの記録が下手です。フィルムカメラでも充分逆光とかでいいのは技術がないと難しいのですが,デジタルは特に下手です。そりゃあそうか,撮「影」なんだから,などと自己納得させたりしておりました。

 

 そんなある日,また夕暮れの時分,大きな塊の雲がほんのりと橙に染まって,なにやら壮大な様子を見せていました。ちょうど空に雲の輪がかかったようで,それが街の上に浮かんでいるような時に,ほんのりとした橙。例によって惹かれてぼーっと見て,何気なく携帯を取り出しました。そしてカメラを向けると,肉眼では青く残る空の一部までうっすらと橙に染まり,もともとほんのりと色づいていたところははっきり「橙!」になっていました。私は何度か画面と空を見比べて,印象の違いに驚いていました。

 

 携帯のカメラは微妙な色合いを撮るのが苦手で,色彩や濃淡のグラデーションの対応に難があるようです。しかし今回のそれは微妙にまだ「青」といえるグラデーションの色を捉えきれず,強めの橙で表したようです。細かい理屈は分かりません。以前は微妙に「橙」のグラデーションがきれいだったのに青く写って大したことなかったという経験もありました。

 

 良くも悪くもこれは「別の眼」と見ればいいのかもな,と思いました。撮影だけでなく,違ったフィルターが手軽に扱えるわけです。当然眼と同じ品質を目指してカメラは作られているのでしょうが,それでも埋められない差がむしろ新鮮で,これはこれでいいか,と思いました。ちなみに挙げたある日の夕焼けはその後むしろ紅に暮れていき,カメラのように橙が濃くはなりませんでした。
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 また嗅覚の話を蒸し返しますと。
 「にほふ」という単語は、高校のときに使っていた古典単語の本には確か「つやつやと照り映える美しさだ」とか何とか、長ったらしい語義が書いてあって、とにかく視覚的な美しさを表す形容詞なのだと書いてありました。すると、昔々の日本語には嗅覚情報を表す言葉は「かをる」しかなかったことになりますね。
 ただ、源氏物語の匂宮という登場人物が、薫に対抗して着物に香を焚きしめていることからその名で呼ばれている、ということもありますので、千年前には既に「にほふ」も嗅覚情報を表し、「かをる」と併せて、嗅覚の何か二つの側面を表していたということは間違いないでしょう。
 勘の良い方はお気づきだと思いますが、薫は「かをる」という嗅覚に重なりますし(薫は生まれながらに良いかおりを放っていたらしいです)、もっと遡って光源氏だって「ひかる」という視覚情報を表しています。
 嗅覚とか視覚だとか漢語を使うのも窮屈になってきました。「ひかる」も「かをる」も「にほふ」も人から出る美しさを形容する言葉として同一線上に扱われているのでしょう。現代のように画面を通して何ものをも見る文化においては忘れてしまいがちですが、何かが見えるということは、その臭いや香りが届くことも当たり前に伴うのです。
 すみません。先週休んでしまいました。言い訳をすると、私はあの時長野にいました。そう、テニスサークルの合宿です。一週間近く行ってました。
  まぁそんなに長く、延々と練習をしているわけでもなく、チーム対抗の試合をゆるうくやっていたのですが。何せやっぱり試合って緊張しますね。サーブ、フォルトしまくりました。見かけによらず私はノミの心臓の持ち主です。試合が競ってきたりなんかすると、先輩と組んだダブルスなんかだったりすると、よく見ると手が震えていたりします。緊張でフォームが縮こまってしまいます。要するに…ヘボいです。私。
  そしてこんな私だから、プレッシャーをものともしないプロの選手たちを見ると尊敬してしまいます。どんな心境なんだろうっていつも不思議です。勝ちにこだわらずテニスそれ自体が好きだから伸び伸びやれるのかな?それとも、勝ちしか頭になくって、それが良い方に働いて伸び伸び出来るのかな?
  …緊張に打ち勝つ方法って人それぞれだと思います。今日も私は個別指導の研修の模擬授業でパニックになりました。普通にミスしました。対処は、仕切れた気がしません。けれど、少なくとも上がり性の私の中では、パニックは、それと意識したら悪化するから、向かうべき問題のみに没頭するべきだ、ということになっているので、パニックな自分を意識しないようにしていました。こうしていたら上がりにくい体質になるでしょうか。なって欲しいです。
  でもやっぱり…こんなことをウジウジ考えあぐねている私のメンタル面は、アスリートになれる質のものじゃないな、という結論に至ります。そして、それはそれで、ウジウジした自分も良いじゃないかなんて思って、更にアスリートから遠ざかる。やっぱり私は勝ちに"行け"ません。
  オリンピックでメダルを取れなかった選手を揶揄することなんて、一生出来ません。

先週末の夕暮れ時、私は近所の寺の境内を歩いていた。西方には夕日の気配がうっすらと残り、東の空には満ちかけた月が昇って辺りの雲を青く照らしていた。お精霊送りを間近に控えた境内は、たくさんの行燈に彩られ、ふだんとは全く違った妖しい華やかさと緊迫した静けさに包まれていた。

残光が薄らぐにつれて、法堂のシルエットが黒々と浮かび上がり、それを背景にして行燈の光がますます映える。人の気配はしない。砂利を踏みしめる私の靴音だけが規則正しく鳴っていた。

この寺に、今年は幾人の霊が還ってきているのだろうか。どんな気持ちでこの一週間を過ごし、何を思って向こうの世界に帰って行くのだろうか。数年前に亡くなった私の祖父が、この寺の納骨堂に眠っている。私たち家族の近くに暮らしていながら孤独な生活を好んだ人で、幼い孫には結局何も語らぬまま逝ってしまった。聞いた話では、彼は形あるものへの執着を根っから嫌ったという。亡くなった日の新聞と、鉛筆だけを握りしめて灰になった。墓はない。

そんな祖父の霊も、この境内の中を漂っているのだろうか。私を見つけても、きっと知らぬ振りをするだろう。何も教えてくれはしないだろう。そのかわり恨みも取り憑きもしないだろう。そもそも外に出るのが億劫で納骨堂にひきこもっているかもしれない。そうだとしたら、それが一番祖父らしい。

不謹慎なことを考えながら、私は法堂の周りをゆっくりと歩く。蝉の声がとぎれとぎれに聞こえる。ふと石段に目をやると、その中ほどに腰掛ける人影が見えた。行燈の薄明かりに浮かび上がるその正体は、私と同じくらいの年の、華奢な女性だった。そして、どうやら彼女は本を読んでいるらしい。お盆真っ盛りの人気のない境内で、行燈に照らされて読書にいそしむ。今どきそんな人がいるものだろうか。私は興味をひかれて、知らぬ間に足を止めていた。そしてしばらく彼女の方を眺めていたが、向こうは私がいることに気づく風もなく、一心に書物と向かい合っているのだった。

粋な幽霊もいるものだ。

 夏休み真っ只中です。せっかく時間もたっぷりあるのだから何かしようと思うのですがどうもやる気が出ないもんです。家にひきこもりがちだからなんでしょうか。
 物事に対するやる気は色んなものに左右されます。同じ部屋にいるときでも、部屋の明るさ、温度、外の天気といった外の要因によって気分はずいぶん違います。経験からいうと外の要因でやる気は変わっても、実際にやることがうまくいくかどうかはあまり変わらないものであるので、結局どんな環境でもやる気出さなきゃ駄目だって話になるのですが、やはりやる気が起こらないときはどうしても起こらないものです。
 ところで外の要因と言えば、トイレに入ると妙に頭が回るというのをよく聞きます。私もこの現象にはたまにお世話になります。トイレに入るとリラックスして、落ち着いて考えることができるから頭がよく回るらしいのですが、私はもう一つ原因があると思います。それは、トイレには限られた時間しかいられないということです。勿論普通に用を足す程度の時間はありましょう。しかしあんまり長くいると出るときちょっと恥ずかしい気持ちになりますね。だからトイレの中はリラックスするけど一方で時間に追いたてられてもいるのです。その時何かものを考えるとどうでしょうか。孝太郎の原稿だって締切前になると急に筆が進みます。それと一緒で頭もよく働き、いい考えが浮かぶんじゃないでしょうか。頭が回り出すと、スピーディーな心地よさを感じます。トイレの中というゆったりした空間と全く似つかわしくない感覚が現れるのです。私はそういう風に感じることがあるのですがどうでしょう。
 時間に追いたてられないと頭がちゃんと働こうとしないというのは悲しい性です。私も普段より一層やる気を起こせずにいます。しかし身近なところにやる気を引き出すきっかけはあるようなので、それをうまく使って目を覚ましていこうと思います。

 1週間程前、宮崎駿監督の某映画…いや、伏せる必要もないか…『崖の上のポニョ』を友人と一緒に見に行った。ストーリーは公式サイトにもあるように、まさしく、『海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に我儘をつらぬき通す物語。』であった。私は、こういった作品に関して、感想を述べるのは、極端に苦手なので(なんだかあまり言葉にしたくないというか、言葉にできないというか。)、ここでは特に何がどうだったと詳しく言うつもりはない。映画から受けた印象を敢えて言葉にするなら、無駄のないシンプルな話だったな、ということぐらいだろうか。
 ここでは、決して悪い意味ではなく、むしろ良い意味で「シンプル」という言葉を使っているのだが、だからこそ、映画の結末は拍子抜けするくらいだった。胸の中にあるのは、ほのぼのとした気持ちぐらいのものだった。…その筈だったのだが、エンディングに入り、スタッフロールが流れた瞬間、溢れ出そうとする涙。そこまで激しい衝動ではなかったので、目を潤ませるにとどまったが、何故、このタイミングで自分は涙をこらえているのか、と頭の中は疑問符で一杯だった。
泣きたくなるとき。涙が思わず溢れそうになるとき。不確かであっても、ぼんやりとその原因は頭の片隅にあったり、なんとなく推測できたりするものだ。少なくとも、今までの私はそうであったはずだ。しかし、このときばかりは、いくら考えてみても、ああ、これが原因かもしれないと少しでも思えることが頭に浮かばなかった。何を感じて、自分が涙を浮かべているのかさえわからなかった。

 いつか、この涙の意味がわかる日がくるのだろうか。それとも、やっぱり訳の分からないままなのだろうか。
 もう少し月日が流れてから、もう一度見たいと思った映画だった。

「箸が転んでもおかしい年頃」とはよく言ったものだが、少し前まではその感覚は実に共感できるものだった。箸どころではない、本当に取るに足らないことがおかしくて仕方なかった。見慣れたものでも、その時の気分が違えば私の目には真新しく映り、逆に知らないものやことでも懐かしい愛しさを感じることができていた。
 
しかし最近は、その感覚が徐々に失われていることに気づかされる日々だ。私の知る季節の移り変わりも、はや20周目だ。その変化にふと目を留めることも少なくなった。信じられないような偶然や作り話の世界にこころを動かされても、その感動はそのとき1回限りだ。思い出し笑いなんて、すいぶんご無沙汰だ。まだまだ若いはずなのに、急に年寄りくさくなってしまったなぁ。
 
生活とはなんとも平凡だ!旅へ出ても、誰かに会っても、世界は一つの平面上に並べられているに過ぎない。その世界から消えさる「死」ですらきっと平凡だ。宗教だって倫理だって、平面上の平凡な生き物が作り出した。この世に崇高なものがあるのか?そんなことを考えながら日々をすごしている。
 
きっと今の私はこの平凡さに退屈しているのだろう。自ら動き出すことは無いが、この平凡が誰かによって打開されることを心のどこかで期待している。やはりまだまだ私は青いのだな。
 
平凡もまたいい。平凡に甘んじるのではなく平凡を楽しむことができる大人になろう。
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