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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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麻疹(はしか)が流行ったのをみなさん覚えていますか?関東のほうの大学は次々と休学騒ぎで大変でしたよね。
今年は関西でも流行るかもしれないということで、私の通う大学のほうでは麻疹の無料予防接種が行われました。
一応受けに行ってきたのですが、麻疹に対する危機感は全くもって無い状態でした。麻疹が流行った時期はみんなでなんやかんや話したりして多少の危機感もあったように思われます。
のどもとすぎればなんとやらで、人とは何でもかんでもすぐに忘れてしまいます。大事なことであっても忘れてしまうということはあります。
忘れるという行為は意識的にできることではありません。忘れたくなくても忘れるし、忘れたくても忘れられない。
りんごを忘れてください、と言われた瞬間には私たちの頭の中にはりんごが浮かび上がってしまっているのです。一度頭の中に出現したら、なかなか忘れることなんてできませんよね?
今私が思っている気持ちや感じたことはあと少しすれば忘れてしまうのでしょうか。あれ、何だっけ、まぁたいしたことじゃないんだろう、と未来の私はあっさり突き飛ばしてしまうのでしょうか。何だか少し切ないです。
そんなこともあってか、3ヶ月ほど前から記録をつけることに意欲的であるのです。手帳の横のスペースに3行ほど、今日あった嬉しいこと、悲しいこと、忘れたくないことなどを書いています。
意外と日付を戻ってみると何気ないことが多いのですが、少し微笑ましいような過去の自分と対話しているような温かい気持ちになれます。
5年や10年経って、忘れてしまったものと同じものをたった3行の文字から完全に感じ取ることは不可能でしょう。しかし、忘れることにも意義があったのだろうと思えるかもしれません。
そして最後に、孝太郎の更新を忘れてしまってごめんなさい。しかしそのおかけでなんとか更新できました。
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久しぶりにしっかりと雪が降った。小さい頃は雪とか雨とか降るとはしゃいだけど今はうっとしいだけ、なんて人もいるが、私はいまでも雪が降るとうれしくなる。

雪と言えば高校の数学の先生が、たしか「雪降ってるの見ると積分を感じますよね」なんてことを言っていた。この感覚が私の身にはなかなか降ってこなくて、悔しいような思いをしたのを覚えている。

数学と言えば、「あきらめない」が大事だ、みたいなことを言われたことがある。対して英語は「毎日やる」なんだとか。その通りである気もする。

今日は大阪でマラソンがあった。先々週とまた内容がかぶるみたいだが、毎日やることや、あきらめないことの尊さを感じることができる。

 受験生のみんな、どうかがんばって。忙しさのなか、降る雪を見逃さないように、春に向かってあと少し。

 今年も、第一次の戦いが終わったようですね。センター試験…に付随して起こる縁起担ぎ商戦です。

 

 某二つに割って食べるチョコレートが最初だと言われたり言われなかったり…最近はテレビが特番を組んだりすることもあってか、とことんこじつけたものまで登場していますよね。代表的なものを列挙してみましょうか。

 

 お菓子類はまあ言わずもがなとして(うカルピス、かちの種というちょっとマイナーなのもありますが)、その他古典的にはカツレツ(勝つ)、ステーキ&カツレツ(敵に勝つ:但し胃への負担が大きく一般的には用いられない)、ウインナーソーセージ(Winner)、蛸(OKUTO pass)、ジャガイモのメークイン(Make Win)、五角形の品物(五ー角)、電車の線路の上に敷く砂(滑り止め)…キリがありません。筆者の家族はだいたい迷信を信じないのですが、それでいて他人事には呑気なため、「こんなんあったで~」と言って見つけるのを競っては受験勉強中の筆者にいろいろ持ってきたという想い出があります。

 

 古典的と書きましたが、カツについて調べてみましたら面白い資料が。最近では受験一つとっても家族総がかりで挑む場合も見られ、かつ親が手厚く手厚く応援するパターンもあるらしく、受験のためのホテルサービスを利用する家族もいるらしいです。例えば、あるホテルでは自習室完備、食事は脳を活性化させる栄養素を重視、翌朝は遅れないように起こすサービス…と至れり尽くせりの極みのようなものが紹介されていました。そこまでいかないのですが、某ホテルの食事についての一般へのサービスに、以下のようなものが。

 

[ごはん]

商品名:和洋5角(合格)弁当

価格:2,100円(税込)

内容:ポークフィレカツレツ・海老フライ・焼魚・煮物・焙りチキン・玉子焼・豚の肩ローストとタンのテリーヌ・白飯・ペットボトル日本茶・みかん

 

[パン]

商品名:牛煮込み肉 カツ(勝つ)サンドイッチセット

価格:2,100円(税込)

内容:牛煮込みカツレツサンドイッチ・プロセスチーズ・マカロン・ミニマーケットサラダ・フルーツハートゼリー・ペットボトルミルクティー付

 

 こうなってくるともう笑えません。量的には夕食を想定しているのでしょうか、でも弁当です。持って行くのでしょうかね。受験会場に行って昼食時、ライバルたちを変な意味で圧倒することは間違いなく可能です。想像してみましょう、隣の奴の弁当がカツ、海老フライ、焼魚、煮物、チキン、玉子焼、テリーヌという場違いなメニューだったら。変な関心と骨川スネ夫を見るような眼つきを筆者ならしてしまうでしょう。また、食べなれない人間がそういう豪勢な食事をただでさえ緊張している時に大量に取るとどうなるか。

 

 ちなみに野菜類が少ないことも特徴です。

 

 たいてい気にしているのは当事者以外なものです。本人にとって切実であっても周りは案外気にしてくれないもので。享楽的にすら映るこの商戦。さて、来月にはどんなことになるか。そんな業界と野次馬のおふざけに関わらない切実な努力を、筆者は応援したいと思います。

 朝起き憂くて家を出るのが遅くなり遅刻する覚悟で電車に揺られていたら、案外五分ぐらいの遅刻ですんだ。
 電車というものは斯く面倒くさい。厳密に生きたければ、今や携帯電話で乗り換え案内を見ることも可能だが、私のように"大体"で生きたいものには、電車が早く来るか否かで移動時間が大きく左右される。それでも厳密さを取らないのはやはりその"大体さ"を認めているからに他ならないのだが…。
 ところで、電車の中の時間を無駄な時間と考え、本を読むなり何なりして何とかこれをやり過ごそうという人がいるが、というか私も昔はそういう思想の持ち主であったが、近頃はそうでもない。何もしない時間というのも大いに結構であると思っている。そもそも時間などというものは人間が知覚しない限り存在しないものだ。やらねばならないことが〆切を伴って現れたときには、その時間を意識して電車の中で本を読むなり勉強するなり好きにすればいい。だがしかし、何もないときには時間だって流れない。無理に時間を流すよりは、こういう風なことをぼおっと電車の中で考えているほうが私にとっては健康的なのである。

寒い日が続いている。今日もまた、気づけば雪が降っていた。そんなに強い雪でもなかったので、折りたたみ傘を持っていたものの、傘を差さずに歩いた。私は、雪が空中から何処かに到達した後、少しずつ融けていくのを見るのが好きで、足元や自分の身体に到達した雪をぼんやりと眺めていた。

そんな中、感じるのは「鼻が寒い」ということだ。(少し日本語がおかしいかもしれない。)指先や、耳が冷たくなって辛いというのはよく聞く話だが、「鼻が寒い」というのはあまり耳にしない。それが関係しているのか、はたまた見た目の問題からか、指先がかじかむときは手袋、耳が冷たくなったときには耳あてという防寒具が存在しているのに、「鼻が寒い」ときのための鼻あてなどは決して存在しない。「鼻が寒い」ときの対処法として、友人がマフラーを鼻のあたりまで上げることを勧めてくれたが、呼吸をしているうちに鼻や口元に湿気を感じるようになるのが嫌いな私は、実行する気になれず、なかなか「鼻が寒い」のを解消できずに困っている。誰か良い対処法があれば教えてもらいたいものだ。

 

何やら、取り留めのないことをつらつらと書いてしまい、申し訳ない。今回は、どうも、文章で表現したいと強く思えることが見つからなかった。最近、色々なことに追われていて、忙しく、ぼんやり胸のうちに表現したいものはあるはずなのに、文章で表現するまでには至っていないようだ。どうやら、私が文章で何か表現するためには、心身共に、ある程度の余裕が必要なようである。

みなさん風邪などは引いていませんか?急に雪なんか降ってしまって寒い日が続いておりますのでお気を付けください。

センター試験も終了ですね。もうあの頃から一年も経ってしまったのかと、懐かしむ感情が溢れます。あの頃は必死で不安で、追いかけているような追いかけられているような、そんな不安定な時期でした。今はそんな不安定な時期を生きている生徒たちのお手伝いをしています。早いものです。たかがバイトですが、講師というのは人の人生を左右するような大きな存在だと思っています。一年前の私は、自分自身のことを考え、自分自身のために勉強し努力し、自分自身に打ち勝つことが第一でした。今の私はそんな環境から逆に、そういう人々の力になる仕事をしています。それは素晴らしいことであり、また恐ろしいことでもあります。影響力のあることはプラスでもありまたマイナスな面も持っているのです。そんな立場は自分自身の存在を改めて考え直す機会をくれました。私にとっての私ではなく、みんなにとっての私とは何であるのか、何であるべきなのか。そして何ができるのか、何をすべきなのか。人を教え導くことの難しさと面白さを私は今感じています。

 先週は駅伝のことを書いたが、本当は別の文章を投稿するつもりだった。どんなことを書きかけていたかというと、裁判員制度のことである。

 先週は、福岡の飲酒運転による追突事故で3児が死亡した事件の判決が福岡地裁で下されたというニュースがとびかっていて、特に、危険運転致死傷罪でなく業務上過失致死罪が適用されたことに疑問の声があがっていた。多くのいわゆる市民の意見と、判決の内容あるいは全部でない法律の専門家の意見とが食い違っていた訳だが、この事件、裁判員制度の導入後に行われていたら結果は変わったか?とふと思ったのが、この制度についていろいろ調べようと思ったひとつのきっかけとなったのである。(ここで制度や判決について意見を述べるわけではない)

 で、関連した本を図書館に探したり、インターネットをつかったりして知識を得ようとしたのだが、やはり導入の背景や、選ばれた際どうすればよいか、導入後どのような問題が起こってくると予想されるか、など膨大すぎてまだ自分の中で整理しきれていない。それに、制度に対して一定の知識を得ても、実際裁判に関わるとなればまたよくよく考えるべきことが生じて来よう。裁判員制度は2009年5月には始まるもので、自分ももうすぐ成人であるのだが、意識が低すぎたか、と思わされた。

 ところで、先週の同じころ、弁護士が裁判員制度のために、外国人講師を招いて講習会をひらき「いかに裁判員に“アピール”するか」を学んでいるというニュースも見た。それと同時に思い出したのが、「弁護士というのはウソつきみたいなもんよ、みんなからは尊敬も信頼もされてないわ」という言葉(英語で言われたので誤訳かもしれないが)である。日本ではなんとなく正義の味方のようなイメージがあるが。

 なんというか、世知辛いというか、不安だなぁと思う。社会のすべてがそうであるのでは決してないが、ショー的な要素にウェイトがかかりすぎている感じがする。

 というふうに書いていたところに駅伝を見たのである。彼女たちは実に輝いていた。

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